城下町てくてく歩き(長篠設楽原) .
城を訪ねて、てくてく旅

長篠・設楽原合戦 (愛知県・新城市)
 
        長篠城


設楽原
黒沢明監督の映画「影武者」では、武田の最強騎馬軍団が織田信長の鉄砲隊にことごとく打ち取られる場面が印象的な「設楽原」ですが、(当然のように)映画とはずいぶん異なり狭い場所のように感じました。

信玄公以来のの重臣たち山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らは、長篠城の救援のため信長自らの出陣を知り、撤退を進言したと言われるが、勝頼は決戦を行うことを決意する。

信長軍3万と家康軍8千は、天正3(1575)年5月18日に長篠設楽原に着陣。
一方、武田軍は、長篠城攻撃のために、すでに君ヶ臥床、姥ヶ懐、鳶ヶ巣山(とびがすやま)、中山、久間山に5つの砦を築いていた。

5月20日、鳶ヶ巣山砦には、信玄の弟の武田信実、小宮山信近ら1千を残し、武田勝頼の本隊は設楽原に向けて進出したが・・・・。
本隊の出陣後に、鳶ヶ巣山の背後から、突然酒井忠次率いる織田・徳川連合軍が武田軍に襲い掛かかった。そして、信実他多くの兵が討死して砦は落城してしまった。

5月21日早朝、設楽原にて武田軍が織田・徳川軍を攻撃。戦いは約8時間も続いたが、織田・徳川軍の新戦術に武田軍は重臣を含む多くの将兵を失うこととなった。 

その結果、鳶ヶ巣山攻防戦も含め武田軍は1万名以上の犠牲者を出したといわれる。

勝頼は長篠の敗退を契機に、敵対していた上杉家と家督相続の争いに乗じて同盟を結び北条氏を牽制、また、武田家に人質としていた織田信房を織田家に返還して信長との和睦を試みた。
しかし、天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍による甲斐への本格的侵攻が行われて武田氏は滅亡した。

最近の研究では、織田徳川軍1.8万人、武田軍6000人程度と言うのが有力な説となっている




設楽原歴史資料館

設楽原合戦の図
 
信玄塚


設楽原
連吾川を挟んで左が徳川陣地、右手が山県昌景陣地。思ったほど広くない場所なので驚きました。(遠くに見えるのは新東名高速道路)


小説によく出てくるこの合戦は、信長の三段備えの鉄砲を用いた新戦術により、勝頼率いる騎馬軍団が壊滅させられたとのイメージが強いのですが、実際は織田・徳川連合軍の死者も6000人を超えたといわれており、必ずしも一方的な戦ではなかったようです。
しかし、近代兵器を駆使する織田・徳川軍と比較して、百戦錬磨の武田軍とはいえ半分以下の兵力では最初から勝ち目がなかったのかもわかりません。


馬防柵がならぶ設楽原
連合軍は連吾川を堀とし、さらに三線からなる馬防柵を構築し武田の騎馬軍団を迎え撃ったとのこと。




馬防柵

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