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城を訪ねて、てくてく旅
長篠城本丸跡
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長篠城は、永正5(1508)年、菅沼元成が築城し、天正3年(1575)に徳川家康が奥平貞昌(信昌)を城主として武田への備えとした。
この城は、寒狭川(現在の豊川)と大野川(宇連川)が合流する場所に突き出した断崖絶壁の上にあり、攻めるのが難しい城であった。
そして、徳川氏と武田氏の国境にあり、交通の要衝の地でもあったために、しばしば合戦の舞台となった。
特に1575年(天正3年)5月の武田勝頼軍と織田・徳川連合軍による設楽が原の合戦に先立ち、激しい攻防戦が行われたことで知られている。
現在は国の史跡に指定され、城跡として整備されており、本丸付近には空堀や土塁が残っている。 |
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搦手門跡 |
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長篠城址史跡保存館
長篠城址史跡保存館 |
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火縄銃 |
鳥居強右衛門(すねえもん)
奥平貞昌(後の奥平信昌)は、約500の城兵で長篠城を守備していたが、天正3年5月に武田勝頼の1万5000の兵で包囲された。
しかし、その朗報を知らせるべく帰路の途中、長篠城の近くで武田軍に捕えられ、その際、「援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ」と城に向かって叫ぶよう、強要されたがそれを断ったために、強右衛門は磔にされてしまった。
その後、設楽が原の戦いへと続くことになる 。 |
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長篠城
土居と堀
この正面に見えるのは、本丸の土居と堀で天正3年の姿を残している。
本丸跡
突き出た断崖の上が野牛郭
寒狭川と大野川が合流し天然の要害となっている
長篠城を包囲した武田軍の布陣
鳶ケ巣山は、設楽原の戦いの勝敗を決する舞台となった砦 |
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