|
|
|
|
|
|
第26作 「寅次郎かもめ歌」の 江差町 |
車寅次郎: |
渥美清 |
|
妹・さくら: |
倍賞千恵子 |
|
さくらの夫・博: |
前田吟 |
|
マドンナ: (すみれ) |
伊藤蘭 |
|
ゲスト:(すみれの恋人) |
村田雄浩 |
|
|
|
|
|
|
|
ロケ地 |
北海道江差、奥尻島、阿波徳島 |
|
あらすじ |
|
|
★ 1980(昭和55)年12月公開
|
|
|
|
|
江差の夜景(上の国[かみのくに]町・夷王山から)
江戸時代はニシンの漁場及び北前船によるヒノキアスナロなどの交易港で、「江差の五月は江戸にもない」といわれるほど栄えた。 |
男はつらいよ第26作「寅次郎かもめ歌」の舞台となった江差は、言わずと知れた民謡「江差追分」で有名な町!
また、題名にもでてくるかもめ歌の「かもめ」は、日本海に翼を広げて浮かぶ「かもめ島」で、町のシンボルになっています。
「かもめ歌」のあらすじは・・・・
北海道江差町では民謡のど自慢大会が開かれていた。
久しぶりに集まったテキヤ仲間の間で、大酒のみの常吉のことが話題になる。だがその男はもうすでに病気で死んでいた。親しくしていた寅さんはせめて線香の一本もあげようと奥尻島に向かう。
そこで寅さんは、常吉の忘れ形見の娘すみれ(伊藤蘭)と出会う。身の上を聞くうちにすみれが東京へ行って定時制高校に通いたいということを聞き、その手助けをするという話になります・・・・。
そこでおなじみの騒動が柴又で巻き起こります。
もっと詳しく・・・
なお、江差からフェリーが出ている奥尻島は、1993年(平成5年)7月の北海道南西沖地震での津波で大被害を受けています。
|
|
今は陸続きとなった「かもめ島」
江差町の正面に浮かぶ周囲2.6q、海抜20mの小島で、南北に細長く中央がくびれた特異な形が、かもめの羽ばたく姿に似ていることから「かもめ島」と呼ばれています。 |
|
|
江差追分会館
追分節は、江戸時代の頃から信州中仙道で唄われていた「馬子歌」がはやり歌として全国に広まり、越後に伝わったものは船歌となって船頭達に歌われました。
やがて今から200年程前になって北前船によって江差に運ばれてきたといいます。
会館の百畳敷もあるホールでは毎日、江差追分と地元北海道民謡の実演を聞くことができます。 |
|
◆ 江差町〜いにしえ街道
|
|
|
江差町は江戸時代から明治時代にかけて、北前船の往来とニシン漁による繁栄を築きました。
このため、多くの歴史的な遺産が残されており、江差町ではこの貴重な歴史的建物を保存・活用した景観づくりを進めています。
それが市内にある「古(いにしえ)街道」です。これは飛騨高山、会津大内宿などと同じように、かつての商家、町屋などを横山家、中村家(廻船問屋)を中心として町並み景観を保存しています。
町内は電柱をなくして新築の家も昔風のつくりになっています。 |
|
|
古(いにしえ)ふれあい通り |
|
|
|
旧中村家住宅は、江戸時代から回船問屋を営んでいた、近江商人の大橋宇兵衛が建てた家屋。
その後大正初期に中村家へ譲渡された。
越前石を積み上げた土台、総ヒノキ切妻造りの母屋など、問屋建築の代表的な造りです。昭和46年に重要文化財の指定を受けた。
|
|
|
母屋から浜側のハネ出しといわれる部分まで階段状に部屋が造られています。 |
|
|
右手奥は土蔵 |
浜側のハネ出しの下は船が接岸できる海だった。 |
|
◆ 旧檜山爾志郡役所 |
明治12年(1879年)には道内各所に郡が設けられ、檜山郡と爾志郡には二郡を管轄する郡役所として檜山爾志郡役所が設置されました。
1887(明治20)年、ロシア人の設計によって建てられた開拓使時代の洋風建物で、北海道に残る唯一の旧群役所兼江差警察署庁舎です。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
◆ 横山家
200年余り続く商家横山家。1786(天明6)年、現在地において漁業、商売、廻船問屋を営んでいました。現在の建物は約160年前に建てられた家屋です。館内にはニシン漁全盛期のころに使用されていた生活用具が並び、当時の暮らしを伝えています。 |
|
|
◆ 開陽丸 |
|
|
明治元年、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争がぼっ発。
榎本武揚率いる旧幕府軍は箱館五稜郭を占領後、松前藩最後の防衛線である江差の攻撃をもくろみ、開陽丸で江差沖へ進みましたが暴風雪のため座礁、ついに沈没してしまいました。 |
|
|
|
|