城下町てくてく歩き(関ヶ原) .
城を訪ねて、てくてく旅

(岐阜県・関ケ原町)
 



関ケ原古戦場跡に立つ碑

慶長5(1600)年9月15日、徳川家康率いる東軍(7万4千)と毛利輝元を総大将とした石田三成が率いる西軍(8万2千)が、この地関ヶ原で激突しました。豊臣秀吉没後の主導権をめぐる「天下分け目の戦い」としてもよく知られています。

俄(にわ)か歴史好きの私にとって、天下分け目の戦いとなった関ケ原の地に立つことは長年の夢でもありました。

私は武蔵の片田舎の生まれなので、きっと東軍に組み入れられ、槍を持たされ最前線で突撃を命じられる立場の雑兵だったはずです。
死ぬのが怖いから恐らく逃げ回って、戦いが終わるのをじっと待っていたと思います。

そのようなわけで、逃げ回って生き延びた地?を訪れる必然性があったので、馬ならぬ電動自転車に跨り、関ケ原の地を走り回ってきました。

(関ケ原の戦いは、最近の研究によれば実際の様子は、これまでの認識とは異なることが多々あることが分かってきたようです。それを頭に入れながら歩き回るのも楽しいことでした)



石田三成と島左近の陣跡








右側の西軍はツルが翼を広げたような鶴翼の陣形。後方の南宮山には毛利軍が詰めており東軍を包囲した形となっている。このまますんなりと戦えば西軍の勝ちとなるところを、様々な要因が重なって西軍は敗れてしまった。
すなわち、豊臣秀吉の正室・高台院の甥に当たる小早川秀秋が東軍に、そして、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らは土壇場で東軍へ寝返ってしまった。そして、東軍の背後を攻撃するはずの毛利秀元が、南宮山を下ろうとした時に、毛利本家の安泰を一番と考える吉川広家(毛利元就の孫)に阻まれて戦いに参加出来なかったのだ。



関ケ原決戦地

関ケ原合戦場
(中央奥に見えるのが石田三成と島左近の陣跡)


徳川家康陣跡


勝利を確信した家康は桃配山からここに陣を移した

徳川家康・最後の陣跡
ここから笹尾山の石田三成の本陣が遠くに見渡せます


丸山(岡山)烽火場
関ケ原合戦の東軍攻撃開始の狼煙が上がったとされる丸山の烽火場。関ケ原の戦場が一望できる高台にあり、東軍の軍師・黒田長政、竹中重門が陣を張ったとされています。


石田三成陣跡

笹尾山の石田三成陣跡(上)と島左近の陣跡
『三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城』
これは、三成の居城である佐和山城には立派な天守閣があったとされることと、島左近は武勇と軍略の才に長けていて三成を軍事面で支えていて三成には勿体無い人物だったという意味です。


三成の旗印
大一大万大吉」は、源平合戦の時代に木曾義仲を討ち取った石田次郎為久が用いていたものを三成が気に入って使ったと言われています。

大一大万大吉」とは「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という意味です。




島左近の陣跡


石田三成陣跡

笹尾山の三成陣跡から見る関ケ原合戦場
(正面の山は毛利軍が陣取る南宮山)





松尾山に陣取る小早川秀秋に対し、家康は秀秋の陣に「問鉄砲」を撃ちかけて脅した結果、秀秋は寝返りを決意し戦いは一気に決着するという話があります。しかし、秀秋は開戦と同時に家康方についたと記述された資料もあるようです。


島津義弘陣跡




薩摩国の戦国大名・島津義久の弟・島津義弘は、三成の命令に反して終始陣を動かず、最後は島津の武力を誇示するために正面の家康本陣に突撃し、そのまま中央突破して薩摩へ帰国した「猛将」とされています。
しかし、この話も、西軍が総崩れの中で後ろへ退却できず、その結果、家康本陣前の正面突破しか逃げ道がなかったというのが真相のようですが・・・・。



小西行長陣跡

小西行長陣跡
キリシタン大名であった肥後宇土城主(熊本)小西行長は、西軍の将として奮戦したが小早川秀秋の裏切りにあって捕縛された。しかし、切支丹は自殺(切腹)を禁じられていたため斬首された。



開戦地
小西行長の陣跡から笹尾山の三成の陣を臨む。小早川軍の寝返りによって後方から攻撃を受け、また、味方であった島津軍は動かず、結局敗走してしまう。この地に立つと「それはないだろう!」という行長の声が聞こえそうです。


馬ならぬ自転車に跨り大谷吉継の墓をめざす!

宇喜多秀家陣跡

宇喜田秀家は、西軍最大兵力(1万7千人)を有し副将として、東軍の福島正則隊と死闘を繰り広げた。しかし、小早川秀秋の寝返りにより宇喜多隊は総崩れとなり、秀家は伊吹山へ敗走し、その後島津家に匿われた。
慶長8(1603/江戸幕府成立)年、徳川家康に身柄を引き渡されて八丈島へ配流されてしまう。




大谷吉継の墓

大谷吉継の墓
石田三成の盟友であった大谷吉継は、東軍へ寝返った小早川秀秋とそれに同調した脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の攻撃を受けて総崩れして、その結果吉継は自害したという。


松平忠吉と井伊直政の陣跡

松平忠吉と井伊直政の陣跡
東海道組の総大将を任された家康四男・忠吉は井伊直政の後見を受けて初陣を飾った。
福島正則を出し抜き、西軍・宇喜多秀家に鉄砲を撃ちかけて開戦の火ぶたを切ったと言われる。(中山道組は秀忠)


松平忠吉の陣跡に東首塚がある↓

首塚

合戦で命を落とした諸将の首を東西2ヶ所に埋葬した首塚のひとつです。

何だか恐ろしい場所ですが・・・・
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