城下町てくてく歩き(高崎城) .
城を訪ねて、てくてく旅

(群馬県・高崎市)
 

高崎城・乾櫓
廃藩時に東門と共に農家に払い下げられて、納屋として用いられていたため唯一残ったそうである。
高崎城は、徳川家康の命により、当時箕輪城・城主の井伊直政によって慶長3(1598)年に築城された。直政は、箕輪城下の町家、寺社などを移築し城下町として整備し、地名を高崎とした。
この城は、鳥川沿いにあった和田城を東へ広げた形で築城されたものだが、輪郭梯郭複合式の平城となっている。
本丸には御三階櫓(天守)と北西の乾(いぬい)、北東の艮(うしとら)、南東の巽(たつみ)、南西の坤(ひつじさる)の四隅にそれぞれ隅櫓があった。

井伊氏が近江・佐和山へ移封された後、元和5(1619)年に安藤重信が入部して以来77年の間に城郭が整備されてきた。
その後、城主は次々と変わって、明治維新の廃藩により明治4(1871)年に273年間に及ぶ高崎藩の歴史の幕が閉じられ廃城となった。

[高崎城に幽閉されていた2代将軍徳川秀忠の三男・徳川忠長(三代将軍家光の弟)が寛永10(1633)年12月6日にこの城で自害した話が有名]



高崎城・東門(中央)と乾櫓
東門と四つの隅櫓の内、現存する乾櫓(県重文指定)


高崎城東門
高崎城には城門が16門あったといわれ、その中で本丸門、刎橋門、東門は平屋門であった。
この東門は寛政10(1798)年正月と天保14(1843)年12月の二度にわたって火災で焼失した記録が残っている。

高崎城・乾櫓

土塁と濠

高崎城跡には高崎市の本丸ともいうべき
高崎市役所が聳えている

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