城下町てくてく歩き(忍城) .
城を訪ねて、てくてく旅

(埼玉県・行田市)
 


忍城・御三階櫓
実質的な天守閣。
明治6年に解体されたが昭和63年(1988)に再建された

忍城(おしじょう)は、文明年間(1469〜86年)初めに築城され、関東七名城と謳われていた。別名は忍の浮き城、亀城。江戸時代には 忍藩の藩庁が置かれていた。

石田光成による水攻めに耐えた忍城は、日本三大水攻めの一つに数えられている。

天正18年(1590)徳川家康が関東に入ると、家康の四男松平忠吉が十万石で忍城に入城。
以後、忍城は徳川の譜代や親藩の大名が城主として入った

明治維新の際に城は壊されたが、現在は忍城本丸の跡地に御三階櫓が建てられ忍城址として整備されている。


      
 [行田市「忍城の由来」参照]







郷土資料館にある当時の俯瞰模型
忍城は、北に利根川、南に荒川がある扇状地にあって、当時は小さな川が乱流しており、広大な沼地となっていた。そして、その川や沼地を巧みに利用して城が築かれた。



御門



御三階櫓


鯱鉾(しゃちほこ)
御三階櫓の屋根の鯱は高さ1.8mもあり日本最大級の大きさ



時鐘(じしょう)
時鐘は、享保2年(1717)伊勢桑名藩主松平忠雅によって鋳造され、文政6年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのにともなって、忍城へ移されたもの。
当時は城の二ノ丸にあって、時の鐘として時刻を知らせていた。
現在城址にある鐘楼は、平成4年(1992)に再造されたもので、本物は郷土博物館に展示されている。

石田三成の水攻め
天正18年(1590)年3月、豊臣秀吉は関東平定のため、北条氏の拠点である小田原へ出陣しました。
北条氏に味方する成田氏の居城である忍城は、同年6月、石田三成、大谷吉隆、長束正家らによって包囲されてしまいます。
石田三成らは、利根川と荒川に挟まれた地形を見て忍城を水攻めすることにし、全長28kmに及ぶ堤をわずか一週間で作り上げたと言われています。
実際は自然堤防上に1〜2m程盛土をしたもので、「石田堤」と呼ばれています。
こうして堤が完成し、利根川や荒川の水を引き入れたのですが、地形的に、忍城や城下町よりも下忍・堤根方面に水が溜まってしまい、遂には堤が決壊 し、水攻めは失敗に終わります。

忍城の戦いは小田原城が7月6日に開城した後も続きましたが、最終的には開城して7月14日に豊臣軍に引き渡されました。


 城を訪ねて三千里 TOP
                                                   (100719)

| 画面上部へ戻る  |  |  |

inserted by FC2 system