豊臣秀吉の家臣であった寺沢志摩守広高は、関ヶ原の戦いで家康の東軍に組し、肥後天草郡4万石を加増され12万2千石の大名となった。
初代唐津藩主となった広高は、慶長13(1608)年に豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)の拠点となった名護屋城の資材を使って唐津城を築城。
唐津城の建つ満島山は、その昔、松浦川や波多川、町田川の河口に浮かぶ孤島であったが、大規模な河川改修を行い、西側と地続きとなるようにした。
天守台は築かれたものの、天守閣は建てられなかったとみられている。しかし、昭和41年に模擬天守が建設された。
天守閣は郷土博物館になっており、唐津藩の資料や唐津焼などが展示されている。
唐津城が建つ場所は、天守を頭に東西へ伸びる松原が両翼を広げた鶴のように見えることから、別名「舞鶴城」と呼ばれている。
はるか昔、学生時代にこの地にやってきた時は、唐津城が出来たばかりで、虹ノ松原を望むお城に感動したものです。あれから50年近くが経ってしまい、時の流れの速さにびっくりする今日この頃です。
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