備中松山城は大和高取城・美濃岩村城と共に日本三大山城の一つに数えられ、唯一天守閣が残っているのは備中松山城だけです。
その備中松山城は標高478mの臥牛山(がぎゅう)・山頂近くの峰(標高430m)に建っていました。国の重要文化財。
この山城は、鎌倉時代に秋庭重信が築いた高梁城が始まりとされています。その後、1683(天和3)年、水谷勝宗によって修築され、今の天守の姿になりました。
この地は山陰と山陽を結び、さらに東西の主要街道も交差する要地であるため、この城をめぐる争奪戦は激しく、めまぐるしく城主が入れ替わりました。関ヶ原の合戦以後は、一時幕府直轄領になり、1617年(元和3)に池田氏が城主となりました。
その後、、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主が代わり明治を迎えました。 |
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高さ10m以上の巨大で切り立った
岩壁がそびえる難攻不落の城 |