白石城・天守閣
(当時は幕府への配慮から天守閣ではなく大櫓と呼んでいた) |
白石城は白石盆地を流れる白石川南側に接した丘陵の北端にある城山(標高75.79m)に築城された。
天正18(1590)年に豊臣秀吉は、当時伊達氏の支配下にあったこの地を没収し、小田原討伐で戦功があった蒲生氏郷へ会津と共にこの地を与えた。
氏郷の家臣・蒲生郷成は、その翌年、城を大改築し、本丸に三層櫓(天守閣)を、さらに坤櫓・巽櫓などを建てて曲輪を整備した。
慶長3(1598)年、蒲生氏に代り会津に移封された上杉景勝は、家臣・甘粕備後清長を入城させたが、慶長3年8月18日に秀吉が亡くなり、家康と石田三成との間で東西対立が起きてしまう。
慶長5(1600)年6月、徳川家康は反家康派の石田三成らを挙兵させるため、会津上杉征伐の軍を起こした。
その際、伊達政宗は旧領奪還のため徳川方に呼応して白石城を攻略した。
慶長7年(1602年)に伊達政宗は、正宗の幼少時から傅役として仕えていた重臣・片倉小十郎景綱を白石に入城させた。
翌年、景綱によって大改修がなされたが、その後文政2(1819)年の火災により天守を焼失。その4年後の文政6(1823)年に再建された。
なお、片倉氏は明治維新まで11代にわたってこの地で続いた。
明治維新後の廃城令でほとんどの建物は破却されてしまったが、平成7(1995)年に再建(1823年)時の図面をもとに構造を史実に再現し木造で建設された。
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