城下町てくてく歩き(岸和田城) .
城を訪ねて、てくてく旅

(大阪府・岸和田市)
 


岸和田城
現在の天守閣は昭和29(1954)年に3層3階の模擬天守として再建された。

岸和田古城は、楠木正成の甥である南北朝時代の武将・和田高家(にぎた たかいえ)が建武元(1334)年ごろに築いたといわれる。

時は移り、天正13(1585)年、豊臣秀吉は叔父である小出秀政を紀州征伐の拠点である岸和田城主にした。
秀政は城郭整備にかかり、慶長2(1597)年に現在地に5重の天守閣を築いた。(この天守閣は文政10(1827)年に落雷で焼失してしまった)

その後、元和5(1619)年に松平康重が入封し城下町の整備を行なった。
寛永17(1640)年、摂津高槻から岡部宣勝が入封し、再び大改修が行われ、伏見城の櫓と城門が移築された。このとき、総曲輪を持つ城となる。

明治維新により廃城となるまで岡部氏が13代にわたって岸和田藩5万3千石を治めていた。



岸和田は、かつては「岸」と呼ばれていたが、建武年間(1334〜36)に楠木正成の甥和田高家が この地に封じられ、「岸の和田」から岸和田の地名が生まれたといわれているが・・・。


岸和田城



絵図に残された江戸時代の天守閣は、5層5階の城で石垣上端から18間(約32.4m)の高さがあり、現在の天守閣より約10m高かった。


隅櫓
西北隅には伏見城から移築した伏見櫓が建っていたが、明治維新の際、取り壊されてしまった。昭和44年に城壁と櫓が再建された。



多聞櫓

天守閣
内部は郷土資料館となっていて、岡部家ゆかりの武具などと郷土の民具、古文書、美術品などの展示がされている


八陣の庭(天守閣から)
昭和28年12月に重森三玲氏によって造園された。
中国の古代の武将・諸葛孔明の八陣法をテーマに作庭したもので、「大将」を中心に、中段は「虎、風」と、下段には「天、地、雲、龍、鳥、蛇」が八陣の兵法として配置されています。



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