野田城の起源は、永正5(1508)年に田峯城主・菅沼定忠の三男・菅沼定則によって築かれたといわれている。(詳細は不明)
元亀3(1572)年12月、上洛を決心した武田信玄は、誘発に乗って出てきた徳川家康を三方ヶ原で敗走させると、翌天正元年1月には菅沼定盈の籠もる野田城を攻めた。
野田城は小城で城兵500名ほどであったが、城は堅固な守りでなかなか落とせず、金山衆を用いて城の井戸の水源を断つという作戦をとった。
そして、城将・菅沼定盈は、家康の援軍も来ないことで城を明け渡すことになった。
しかし、その直後、武田軍は上洛をやめて甲府へ戻ってしまった。
それは何故か・・・・???
武田信玄は、野田城から毎夜聞こえてくる(村松芳休の)笛の音に聞き惚れていた。信玄は本陣を抜け出して城に近付いた。
その時、城から鳥居三左衛門の鉄砲が火を吹き信玄に命中して重傷を負ってしまったという。
その傷がもとで甲斐国に引き上げる途中で亡くなったと云う伝説がある。
この伝説をもとに、黒沢明監督が映画「影武者」(1980年公開)を撮った。(この映画好きだなぁ。何度も見てしまいました)
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