城下町てくてく歩き(浜松城)   .
城を訪ねて、てくてく旅

(静岡県・浜松市)
 


浜松城
1958(昭和33)年に野面積みの旧天守台の上に新天守閣が再建された



浜松城模擬天守閣
徳川家康の築いた浜松城は、三方ヶ原の台地に築かれた。
南北約500m、東西約450mの敷地内西北の最高所に天守曲輪があり、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ、「梯郭式」の築城法をとっている。
なお、 明治維新後、浜松城は廃城となり破壊された。
その後、城址は1950(昭和25)年に「浜松城公園」となり 1958(昭和33)年に鉄筋コンクリート製の天守閣が再建されたが、浜松城は天守が描かれた図面や資料は全く無く、想像に近い建物となっている。



徳川家康は元亀元年(1570)、岡崎から遠江国の曳馬に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城とした。

家康は29歳〜45歳までの17年間を浜松城で過ごした。この間、有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いがあって、特に元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦は、家康の歴史的大惨敗であり唯一の敗け戦として有名。

【三方ヶ原の戦】

武田信玄は25,000の軍勢を率いて都を目指す。
その際、徳川の本拠地である三河に侵入し二俣城、長篠城などを落として進軍。
ところが、(先を急ぐ信玄は兵力温存もあって)家康の浜松城を無視して、進路を北に取り東三河に兵を進めます。
家康は、「浜松城は信玄によって蹂躙されたも同然、これに一矢も酬わずしていられようか」と、織田の援軍加えた一万余の兵で三方ヶ原へ出て行ってしまいます。
相手は無敵を誇る武田騎馬軍団。
家康の采配空しく徳川軍は総崩れとなり、本陣は武田軍の猛将山県昌景に破られてしまい、城へ逃げる際には恐怖の余りに馬上で失禁・脱糞してしまったといわれています・・・。


元号(家康年齢) 戦いの名称
元亀元年(1570年-29歳) 姉川の合戦
元亀三年(1572年-31歳) 三方ヶ原の合戦
天正三年(1575年-34歳) 長篠の戦い
(設楽原の合戦)
天正九年(1581年-40歳) 高天神城の攻略
天正十二年
(1584年-43歳)
小牧・長久手の戦い

浜松城といえば「出世城」
家康が駿府城へ移った後の浜松城は、徳川家とゆかりの濃い譜代大名が城主となり、歴代城主の中には幕府の要職に登用された者も多いことから、のちに「出世城」と呼ばれるようになった。

若き日の徳川家康公銅像


場内地下にある井戸は直径1.3m、深さ1mで、籠城の際、貴重な水を確保するためのものだったと言われる

家康が19歳のときに着用したといわれる金陀美具足と関ヶ原の合戦から徳川家に代々伝えられた歯朶具足が展示されている。


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