清洲城といえば織田信長ですが・・・。
室町初期・応永12(1405)年頃、尾張・遠江・越前の守護大名・斯波義重が清洲城を築城。
斯波氏は足利幕府を支える三管領(細川氏、斯波氏、畠山氏)の一つであり将軍家に次ぐ権力を誇っていた。
斯波義重は織田敏定を守護代として清洲城主に据えて尾張を統治させていた。
斯波氏の家督相続を巡る混乱から織田敏定の家臣の末裔であった織田信長の父・織田信秀が清洲城主にとって代わった。
天文3(1534)年那古野城で生まれた織田信長は、弘治元(1555)年に清洲城主となり、永禄3年(1560)年27歳の時に今川義元を桶狭間の戦いで破って、戦国武将としての第一歩を踏み出したのである。
その後、美濃の斉藤龍興を破った信長は岐阜城へ移り長男・信忠が清州城主となる。
天正10(1582)年本能寺の変で信長が自刃。
同年、清洲城で信長の後継者を決める有名な「清洲会議」が開かれ、信長の次男信雄(のぶかつ)が清洲城主となった。
小田原・北条攻めで信雄が豊臣秀吉に逆らって除封され、文禄4(1595)年に福島正則の居城となった。 |
名古屋城御深井丸西北隅櫓は
清須城天守の資材を転用して
作られたため「清須櫓」とも呼ばれる。 |
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織田信長は、5月19日未明清洲城出陣に際し、幸若舞の敦盛を舞い、馬上の人となった。清洲を出るときは、主従わずかに6騎、熱田神宮に戦勝祈願をした頃は、1000人余りとなり、合戦のときには軍勢3000人ほどになったという。 |
有名な「敦盛」の一節
人間五十年下天のうちをくらぶれば
夢まぼろしの如くなり
ひとたび生を享け滅せぬ者のあるべきか
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慶長5(1600)年の関が原の戦いの際には、東軍の後方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男・松平忠吉が入るが忠吉は病死してしまい、慶長12(1607)年に家康の九男・徳川義直が清洲城に入城する。
その後慶長14(1609)年徳川家康は、清州から名古屋への遷府を義直に命じた。名古屋城は天下普請で慶長19(1614)年に完成し、翌元和元(1615)年義直が名古屋城主となると清洲城は廃城となった。
清州からは武家屋敷、神社仏閣、橋、町屋、門までも名古屋へ移され、「思いがけない名古屋ができて、花の清洲は野となろう」という唄が流行ったように、世にこれを「清洲越し」と呼んでいる |
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