城下町てくてく歩き(熊本城) .
城を訪ねて、てくてく旅

(熊本県・熊本市)
 


熊本城天守閣と小天守
 連結式望楼型の大天守は、「一の天守」とも呼ばれ3重6層地下1階。小天守は3重層階地下1階の造りで「二の天守」とも呼ばれている

熊本城は(姫路城が修復中のため)一度は行きたいお城のNo.1に選ばれています。
以前訪れた時にはなかった本丸御殿が完成していて、復元された城の中ではかなりの満足度が高いお城になっています。

天正15(1587)年、九州平定をした豊臣秀吉は、九州討伐で功を上げた佐々成政に肥後を与えた。しかし、入城した成政は、検地の強行などによりそれに反発する国人に一斉蜂起され、これを自力で鎮めることができなかった。その結果、秀吉の逆鱗にふれてしまい成政は切腹。
翌年、肥後は北半分を加藤清正に、南半分を小西行長に分け与えられることになった。
このとき清正が居城としたのが隈本城で、清正がこの地の茶臼山に新たに築城したのは慶長6(1601)年から慶長12(1607)年にかけてのことであった。





熊本城
昭和35(1960)年に築城350年記念として外観復元された。






加藤清正公像

熊本城・長塀

飯田丸五階櫓櫓

本丸への登り口



熊本城天守閣
明治10(1877)年の西南戦争時に熊本城の天守閣は焼失してしまった。現在の天守閣は、昭和35(1960)年に古地図と写真をもとに復元された。


二様の石垣

二様の石垣とは二つの工法で造られた石垣のこと。
傾斜の緩やかな石垣(手前)は築城初期のものといわれ、同じような大きさの隅石(石垣の角)を使っている。
また、急勾配の石垣は「武者返し」と呼ばれ、長方体の石の長辺と短辺を互に組み合わせて急な角度を出すことができる「算木(さんぎ)積み」という工法で造られている。(細川忠利の代に本丸御殿増築の際に積み足したものといわれている)






闇り(くらがり)御門
本丸御殿は、2つの石垣を跨ぐように建てられたため、地下通路を造って
御殿への入口とした。

本丸御殿

加藤清正によって創建され、藩主の居間や対面所(接客の場)などに使われた。明治10年の西南戦争で焼失。 平成15年の秋から復元工事がはじまり、平成20年春に完成した。


昭君之間(しょうくんのま)
対面所(藩主の会見の場)として使われた。本丸御殿の中で最も格式の高い場所。壁や襖などには中国の前漢の時代の話であるモンゴルに嫁がされた悲劇の美女、王昭君の物語が描かれている。

天井も豪華絢爛


不開門(あかずのもん)
熊本城の鬼門となっている丑寅(北東)にある門。不浄なものを運ぶときだけこの門を開いたと言われている。(国の重要文化財)

五間櫓・北十八間櫓



宇土櫓(うとやぐら)
加藤清正によって慶長12(1607)年に完成。明治10年の西南戦争にて本丸は全焼したが、宇土櫓は焼失を逃れ、建築当時の姿を残している。(国の重要文化財)

宇土櫓
 .                                                   (140731) .

| 画面上部へ戻る  |  |  |
inserted by FC2 system

Powered by
FC2携帯変換

閉じる
inserted by FC2 system