肥前佐賀藩・鍋島氏の居城。
佐賀城は、もとは村中城といって龍造寺氏の居城であった。
実質的に龍造寺氏の藩運営をしていた重臣鍋島直茂は、主家の跡取りが相次いで亡くなったことから、幕府公認の元、長男の勝茂を初代藩主としてもらった。
鍋島直茂は城の整備を計画し、慶長6(1611)年に勝茂の時代に完成させた。
城の縄張りは本丸を中心に各曲輪を完全に囲みこむように配置した、いわゆる輪郭梯郭複合式平城(ひらじろ)であった。
平坦な土地に築城された城は、幅50m以上もある堀に囲まれ、目隠し用に土塁に松などの大木を植えていた。
城が樹木の中に沈み込んで見えることや、かつては何重にも外堀を巡らし、外敵から攻撃を受けた際には本丸以外に水を引き入れ水没させて,敵の侵入を防ぐ仕組みになっていたことから「沈み城」とも呼ばれていた。
城は何度か火災にあっていて、特に、享保11年(1726)年の大火により、天守以下本丸建造物の大半を焼失した。その後、天守以外は再建されたが、明治7(1874)年に江藤新平らが明治政府に対する士族反乱を起こした〜「佐賀の乱」により鯱の門と続櫓を除く大半の建造物を焼失してしまった。
|