城下町てくてく歩き(福岡城) .
城を訪ねて、てくてく旅

(福岡県・福岡市)
 


福岡城下之橋御門(左)と[伝]潮見櫓(中央)
 福岡城三の丸の内堀に下之橋大手門、上之橋大手門、追廻橋の三ヶ所の虎口で備えた。
現在の下之橋城門は、一層の門であるが本来は二層の櫓門であっという。
 平成12年8月の不審火で焼失したが復元された。

さすが、黒田官兵衛の地というだけあって、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」(2014年)のノボリがはためいておりました。観光客も多いですね。

慶長5(1600)年、東軍に付いた黒田長政は関ヶ原の戦いで戦功を上げて豊前中津12万3千石から52万3千石の大守となって筑前の国へ移封された。
 そこで長政は、新しい城を博多湾を臨む福崎(現・福岡市中央区)に築城することに決め、その地の名を黒田家発展の地・備前福岡村にちなんで福岡と改称した。

城の縄張りは、築城の名手といわれた豊臣秀吉の軍師であった黒田官兵衛如水と長政の父子が行い、慶長6(1601)年から7年の歳月を費やし、大小47基の櫓を持つ九州最大規模の城(8万坪)として完成させた。

福岡城は、内城と外城とに分かれており、その中の内城だけでも、城の規模としては九州一の城であった。


黒田家は11代、270年間続いたが、明治維新後陸軍の管轄になり、建築物の大半が撤去された。



(伝)潮見櫓
(伝)潮見櫓は福岡城に50余りあった櫓の一つですが、平成3年の調査により潮見櫓ではなく、城内の別の櫓であるということが判明した。その時に本当の潮見櫓は、黒田家の菩提寺・崇福寺に移築されていたことが明らかとなり、この櫓の本来の名称は?となっています。



福岡城 下之橋御門


名島門
もとは名島城の脇門であったが、慶長年間、黒田長政が今の地に福岡城を築き居城を移すとき、黒田24騎の一人である林掃部に払下げて、林家の門として使用されていたという

石垣
主要部は総石垣で、複雑な塁線構造を築き上げている。

祈念櫓

祈念櫓
丸の東北隅に鬼門封じの祈念をするために建立された。
案内板によると万延元(1860)年3月に起工し、同年10月に竣工したとある。
その後、黒田家の菩提寺・崇福寺へ移築され、さらにいろいろな経緯があって、昭和58(1983)年に福岡城の旧位置に移築された。



福岡城想像図(現地案内板より)
天守閣については存在しなかったという説があったが、近年築城当初からの10数年間存在したという説が出ている。

天守台

鉄(くろがね)御門跡



南ノ丸多聞櫓

南ノ丸(二の丸南郭)にある多門櫓は、高く積み上げられた石垣を土台に築かれている。二層の隅櫓とそれに連なる三十間の奥行をもつ平櫓からなっている。
なお、平櫓は嘉永6(1853)年から翌年にかけて建て替えられた。



多門櫓

多門櫓に続く三十間の奥行をもつ平櫓



天守台からの福岡ドーム
岡城の北側は博多湾、南側は赤坂山で守られている。鶴が羽を広げた形に似ていることから、別名、舞鶴城とも言われた。
また、東西7km、南北3kmの広大な城下町が造られた。



速水もこみち君演ずる母里太兵衛邸長屋門
福島正則から日本三大槍のひとつ名槍・日本号を飲み取ったという黒田24騎の一人・母里(もり)太兵衛の邸宅門。(昭和48年に現在地へ移築)

文禄5(1596)年の正月、京都伏見にて主君の黒田長政の名代として母里太兵衛は福島正則へ年賀の挨拶に行った。長政から正則は酒癖が悪いので「酒を絶対飲むな」と命じられていたが・・・・。
正則は案の定、太兵衛にしつこく酒を飲めと絡まれて「この大杯の酒を飲み干せば、望みのものを取らせてやる」と言うので、主君の命に反していたが、太兵衛は大杯の酒を飲み干し、約束通り天下一の「名槍日本号」を手にして帰ったという。
ということで、黒田節のモデルとなったのが母里太兵衛です。

 なお、「名槍日本号」は長さ79.2cm、全長3.21m、重さ2.8kgの大身の槍です。
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