肱川(ひじかわ)河畔の小高い丘の上に建つ大洲城は、元弘元年(1331年)鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房によって築城されたといわれている。
戦国時代には、文禄4年(1595)に藤堂高虎が宇和島城主となり、その支城となった。
また、慶長14年(1609)には淡路・洲本から脇坂安治が5万石で城主となり城の大修築が行われた。(このとき、洲本城の部材を現地から運び込み、城を修築した。このため、当時は「大津」と呼ばれていた地名を洲本の名にちなんで「大洲」と改めたようだ)
元和3年(1617)の大阪の陣の戦功により加藤貞泰が米子から6万石で入封し、明治に至る。
明治維新後に、本丸の天守・櫓の一部は保存されたが、明治21年(1888年)には天守の老朽化により解体されてしまった。
しかし、天守閣は平成16年(2004年)に住民の寄付等により復元された。
四層四階建ての木造天守は日本初のもので、さらに19.15mの高さは日本一の規模の天守となっている。
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