天正11(1583)年、信長亡き後の覇権争いで、羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家による賤ヶ岳の戦いがあった。その戦で功名をあげた「秀吉・七本槍」の1人、加藤嘉明が築いた四国最大の城。
その後、加藤嘉明は関ヶ原の戦い(1600年10月21日)で東軍・徳川家康側につき、その戦功を認められ20万石の大大名となった。
そして、1607年に居城を伊予正木から道後・勝山へ移し、地名を松山として築城を行い寛永4年(1627)に一応の完成を見た。
しかし、同年2月完成直前になんと会津藩40万石に加増移封されてしまった。
松山市の中心部、勝山(標高132m)にそびえ立つ松山城は、本丸を山頂へ置き、二の丸を中腹、三の丸を山麓に置いて、敵の侵入を防ぐために工夫を凝らした名城です。
そして、現存12城の中では、この松山城と彦根城しか存在が確認されていない韓国の倭城の防備手法である「登り石垣」が二之丸から本丸にかけてあるめずらしい構造となっています。
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