|
関ヶ原の戦いで西軍の総大将であった毛利輝元は、その戦いで敗れ、本来であれば改易されるところだった。しかし、(関ヶ原で毛利軍の動きを封じ込めた従弟の)吉川広家の働きもあり、家督を幼い秀就(ひでなり)に譲ることと、安芸8か国112万石から周防・長門の2か国36万9千石に減封することで辛くも毛利本家は残ることになった。
その際、幕府により本拠地を広島から(山口への転地希望がかなわず)三方を山に囲まれた(僻遠地の)萩へと移されることになった。
萩に移った輝元は、日本海に面した指月山(標高143m)とその麓に慶長9(1604)年から築城を開始し、慶長13(1608)年に萩城を完成させた。
その後、250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点であったが、幕末の文久3(1863)年、(第13代藩主毛利敬親のとき)幕府に無断で萩城から藩庁を念願であった山口に移し、そして、あの明治維新を迎えることになった。 |