関ヶ原の戦いで、西軍総大将を務めた毛利家(輝元)だったが、敗戦のため家康に改易させられそうになった。
しかし、家康に協力した毛利一族の吉川広家の働きにより毛利宗家は改易を許され大減封の末に存続を許された。
これにより、吉川広家は出雲・富田・12万石から周防岩国3万石へ転封となった。
周防岩国藩初代藩主となった吉川広家は、慶長13(1608)年に、蛇行した錦川に囲まれた天然の要害である標高200mの横山(城山)山頂に岩国城を築城した。
しかし、その7年後(元和元年)に幕府の一国一城令により、城は取り壊しとなっている。
現在の天守閣は、昭和37(1962)年に四層六階の桃山風南蛮造で外観復元されたもの。
また、復元の際、錦帯橋からの景観を考え旧本丸の約50m南側に天守を移動した。
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