広島城は“鯉(り)城”と呼ばれる優美な城。
永禄6(1563) 年、毛利輝元は父・隆元の死によって11才で毛利家の家督を継いだ。
天正4(1576)年、毛利は、織田信長に追われた将軍・足利義昭を受け入れたため、天下統一を目指す織田信長と敵対した。
天正10(1582)年に信長の命を受けた羽柴秀吉は、毛利方・清水宗治の守る備中高松城を水責めにて攻略。しかし、この間に織田信長が明智光秀により本能寺で討たれてしまい、軍師・黒田官兵衛の策により秀吉は毛利と和睦し「中国大返し」で京へ戻ることになる。
その後、秀吉が信長の後継者としての地位を確保したことにより、輝元は秀吉に臣従し本領を安堵されることになった。
毛利家は、約260年の間、吉田郡山城を本拠地としていたが、輝元は天正16(1588)年に秀吉謁見のため上洛した。
その際に大坂城と聚楽第を見た輝元は、中国地方全体の所領を治めるためには、山城の郡山城は不便と感じて城下移転を決意した。
新しい城は、瀬戸内海に面する太田川の三角州にあった「五箇」に築城することになった。
その時に、この地を広島と改名した。
天正17(1589)年に築城を開始し、天正19(1591)年に吉田郡山城から広島城へ入城した。
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