城下町てくてく歩き(郡山城①) .
城を訪ねて、てくてく旅

その1 (広島県・安芸高田市)
 




毛利元就
(1497年~1571年)
毛利元就は、中国地方最大の戦国武将。一介の国人領主であったが、巧みな策略や大胆な駆け引きをもって、中国地方の大大名にまでのし上がった
郡山城のある安芸高田市は、広島から約40km弱の距離にあるので、なかなか訪れる機会がありませんでした。しかし、戦国武将毛利元就が居城とした城なので絶対に外せない場所なので出かけてきました。

城は、江の川(可愛川)多治比川の合流点にある標高390mの郡山に築かれていて中国地方最大級の山城です。
本丸を中心に放射状に広がる尾根を利用し、無数の郭が築かれていました。
建武3年・延元元(1336)年、南北朝時代の武将毛利時親によって築かれた吉田郡山城が始まりで、毛利元就の時代に全山要塞化されたといわれています。その後、元就の孫毛利輝元が天正19(1591)年に居城を広島に移しましたが、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦で西軍の将として戦ったため、家康により毛利氏は防長(山口)へ転封させられました。そして、郡山城は廃城となりました。


郡山山頂近くに城がある(標高390m)
山腹に掲げられた毛利家家紋「一文字三星」





安芸高田市歴史民俗博物館を出発






三矢の訓碑
毛利元就と言えば「三本の矢」。元就が弘治3(1557)年に三人の子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)に書いた文書。
「一本では折れる矢だが、三本束にすれば折れがたい」と元就が一族の結束を説いた有名な逸話。
この碑を見て育った高田の子供たちは、兄弟仲良く育ちそうですね。



御里屋敷伝承地

元就公像



元就の火葬場跡(伝承地)

元就は、元亀2(1571)年6月14日、御里屋敷で75歳の生涯を終えた。
元就の死後、初7日の法会後に、竹原妙法寺(現在の西方寺)の住持・嘯岳鼎虎禅師(しょうがくていこぜんじ)を導師に火葬された。




大通院公園

青三井山の尼子陣所跡
左が青山 右が三井山 総称して青三井山と言います。
郡山合戦(天文9年/1540~天文10年/1541)の時に 尼子詮久(晴久)が三万の大軍で陣を構えたところです。天文9(1540)年から翌年まで続いた吉田郡山城の戦いでは、尼子詮久(後の尼子晴久)率いる2万の軍に包囲されるが、吉田郡山城には軍勢2400に農民などを加えて8000余りが籠城したという。士気の高い毛利勢は尼子勢を翻弄し、常に主導権を握り、陶隆房率いる大内氏の援軍が到着するまで持ちこたえ、尼子勢の撃退に成功した。
 (現地案内板から説明引用)




郡山城内堀(薬研堀)跡
大通院谷から南麓を取り巻いて、旧本城のあった東の尾根まで内堀が続いていた



毛利元就公墓所への入口

いよいよ山歩きが始まる



毛利氏一族墓所

毛利氏一族墓所
洞春寺境内跡の元就墓所の下段にあるのが毛利一族のお墓。
明治2年に、吉田毛利氏の初代毛利時親以来歴代の墓がここに改葬されました。



百万一心の碑
毛利元就が郡山築城の際に工事の安全を願い人柱の替わりに「百万一心」と彫った石を埋めさせたと伝えられている。
幕末に長州藩士が山中で実物を発見したと記録しているが、今も現物は未発見のままで、郡山城最大の謎となっているそうだ。



毛利元就墓所(洞春寺跡)
元亀2(1571)年、元就は75歳で亡くなった。(私もあと数年で75歳の後期高齢者ですが、関係ありませんね)
その翌年、毛利家の家督を継いでいた孫の輝元によって、菩提寺洞春寺が建立され境内に墓が建てられた。なお、元就長男隆元は、永禄6(1563)年に41歳で佐々部(安芸高田市高宮町)にて亡くなっている。


毛利元就墓所
後方の石垣は広島藩主浅野吉長寄進のもの。中央に「贈従三位大江朝臣元就卿御墓」の墓碑がある。



嘯岳禅師
(しょうがくぜんじ)の墓。
   嘯岳禅師は筑前博多の出身で、2度ほど明に渡り、帰朝後、丹波高源寺、京都の建仁寺、南禅寺の住職を勤めていた。元就から竹原妙法寺へ呼ばれ、元就の死の際には葬儀の導師をつとめた。
慶長4(1599)年に72才で死去。



山道を登り本丸へと向かう → 郡山城②(準備中)へ


郡山城古地図
  郡山城本丸へつづく 

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