城下町てくてく歩き(津和野城) .
城を訪ねて、てくてく旅

(島根県・津和野市)
 




津和野城址

麓から見上げるばかりの頂にある津和野城。登城するにはかなりの勇気が必要ですが、ここには頂上近くまで行ける観光リフトがありました。(ラッキー)
津和野城は標高367mの霊亀山(れいぎざん)山上に南北3kmにのびる丘陵に造られた。別名三本松城、蕗(ふき)城ともいう。
鎌倉時代後期の弘安5(1282)年、吉見頼行が幕府から蒙古襲来に備えるため、能登から石見西部に入部した。そして、三本松城を永仁3(1295)年から約30年かけて築城し、頼行以降、津和野城は吉見氏14代の居城となった

吉見氏は関ケ原の戦いで西軍(毛利配下)だったため敗戦により、三本松城を退去した。
その後に、大坂夏の陣で徳川家康の孫娘・千姫を救い出した坂崎直盛が津和野に入城して近世城郭へと大改修をはかった。しかし、直盛は元和2(1616)年に千姫事件で自害(一説では暗殺)し、改易となった。

元和3(1617)年因幡・鹿野藩から亀井政矩が4万3千石で入城。以後、明治維新まで11代225年にわたって亀井氏の居城となった。

津和野城は、明治に廃城となり、明治7(1874)年に山麓の馬場先櫓と物見櫓を残して建物はすべて解体されてしまった。

 



観光リフトで山頂へ向かう

観光リフトを降りて往復40分の山道を歩く



クマの生息地! ビックリ!





東門跡、三段櫓跡、腰曲輪跡の石垣は階段状に延々と連なって雄大である。

   


   
東門
北から続く尾根(織部丸の方向)から城への出入口となっている。坂崎直盛以降は津和野城の大手門であった。



西側の張り出し部には、馬をつなぎ止めていた「馬立(うまたて)」、石組の排水構跡が残る「台所」がある。また、台所の奥(西側)には「海老櫓」があり搦手側を見張っていた。

東門から馬立へ

石組の排水構跡が残る「台所」跡と海老櫓跡(奥看板)



天守台跡
かつては三層の天守閣があった

天守台跡
貞享3(1686)年に天守は落雷のため焼失し、その後再建されることはなかった





三十間台
城の最高所にある「三十間台」。三十間台の南側には南門(三の丸)などを見下ろせる「人質郭」が、北側には「太鼓丸」がある。
 

三十間台と城下町
亀井氏の時代に、山麓に津和野藩邸や外堀がつくられて城下町として整備された


眼下に広がる津和野の城下町
さだまさしの「案山子」の歌詞は,ここからの風景に着想を得て作られたとのこと。
 [案山子] 作詞 さだまさし

 



太鼓丸(手前)と三十間台の石垣(奥)



曲輪内に番所などがあったとされる三の丸。
中央の石垣の上には人質郭があった。
南門からの三の丸

南門櫓跡


                   
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