城下町てくてく歩き(鳥取城) .
城を訪ねて、てくてく旅

(鳥取県・鳥取市)
 



久松山に建つ鳥取城

鳥取城は、天文14(1545)年に因幡守護・山名誠通(のぶみち)が本拠の布施天神山城の支城として久松山(きゅうしょうざん)山頂(標高263m)に城を築いたのが始まりとされる。
天正元(1573)年、毛利元就の次男・吉川元春(きっかわもとはる)に攻められ降伏して毛利氏の軍門に下った。そして、天正9(1581)年3月に毛利氏の重臣である吉川経家(つねいえ)を城主に迎えていた。
このため、織田信長は再度の中国攻めを羽柴秀吉に命じた。
羽柴秀吉は、2万の兵で鳥取城包囲網を築き兵糧攻めを行ったが、この籠城戦が「鳥取の渇え殺し」と呼ばれる戦国史上最も凄惨を極めた戦いだった。
すなわち、このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、籠城により瞬く間に兵糧は尽き飢餓状態に陥った。数週間後には城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出した。
この事態に吉川経家は降伏を決意し、将兵の助命を条件に自害して降伏した。

慶長5(1600)年の関ヶ原以降は、池田長吉が6万石で入り、池田氏によって近世城郭に改修された。
元和3(1617)年には、姫路藩の第2代藩主・池田利隆の長男である池田光政が、因幡・伯耆32万5,000石の大封で入府。その際に、鳥取城は大大名に相応しい規模に拡張された。また、この時に光政によって城下町の整備も行われた。
その後、寛永9(1632)年、光政の叔父の岡山藩主・池田忠雄が死去したため、山陽道の要衝であった岡山を納めるべく、鳥取から岡山へ国替えとなった。その際に、池田忠雄の長男・光仲(幼かったので)は鳥取へ代わりに入封した。それ以降、池田光仲を藩祖として12代238年間続いて明治維新を迎えた。

                              鳥取城年表

  


鳥取城二の丸と三階櫓石垣





久松山(標高263m)の山頂に本丸・御天守を含む山上の丸があり、山麓には天球丸、二の丸、三の丸、右膳の丸などが配置されている。本丸を他の曲輪で囲む梯郭式の城郭となっている。


久松山(きゅうしょうざん)
山頂に天守台跡、麓に二の丸などの屋敷跡の遺構などがある。        
 鳥取城天守は元禄5(1692)年に落雷で焼失し、以後再建されなかった。


天守台跡の石垣


鳥取城三階櫓跡(右)と角櫓跡(左隅)

鳥取城濠

取り壊される前の鳥取城。三階櫓と菱櫓の間には走櫓がある
二の丸三階櫓は山上の天守が焼失後に天守閣の役割を果たしていた。
この城郭も、明治10(1877)年から明治12(1879)年にかけて破却されてしまった。



鳥取城・北の御門跡

北の御門の傍にある仁風閣
 明治40(1907)年に当時皇太子であった大正天皇の山陰行幸の際に、池田家14代当主仲博が皇太子宿舎として建築。



鳥取城址と仁風閣



西坂下御門
慶応3(1867)年に創建された。
1975年の台風で倒壊したが復元された。



二の丸への階段

二の丸角櫓跡





登石垣


二の丸
池田長吉父子・光政・光仲・綱清・吉泰等の藩主の居館があった。 南西隅には三階櫓、南東隅には走櫓・菱櫓、北東隅は正門の鉄御門があった。



三階櫓跡

三階櫓跡と裏御門跡(右の道)




解体前の三階櫓

三階櫓跡

菱櫓跡


表御門跡




天球丸石垣
城主池田長吉の姉・天球院の居所があったことからこの名がつけられた


天球丸・球面の石垣
球面の石垣は天球丸に残る「巻石垣」。江戸時代の終わり頃、石垣崩落を防止のために築かれたものだという。

 
   

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