城下町てくてく歩き(和歌山城) .
城を訪ねて、てくてく旅

(和歌山県・和歌山市)
 


和歌山城天守
昭和33(1958)年に再建

和歌山城は、天正13(1585)年に豊臣秀吉の命により弟・秀長が築城した。城の縄張りは、当時の一級建築士、築城の名手・藤堂高虎。
標高約49mの虎伏山(とらふせやま)の上に建てられた和歌山城は、山の名前を取って「虎伏城」、また、白壁の天守閣を持つことから「白亜城」とも呼ばれていた。

その後、元和5(1619)年に家康の10男・徳川頼宜(よりのぶ)が徳川御三家の一つである紀州徳川家の居城とした。

そして、紀州徳川家は14代にわたり明治維新まで続くことになる。


第二次大戦時に、昭和20年7月の和歌山大空襲により天守などを焼失したが昭和33(1958)年に天守閣(コンクリート製)などが再建された。
当時、
空爆される城を見て和歌山市民の心はどうだったのでしょうか?


現役時代、今は亡き同僚と和歌山出張の時に、ここを訪れたことを思い出しました。




和歌山城大天守と小天守


和歌山城MAP



一の橋と大手門
昭和58(1983)年復元。

大手門
訪問時には枝垂桜が満開であった

伏虎像
和歌山城の建つ山が、海上から見ると猛虎が伏している姿に似ていたことから伏虎山と呼ばれていた

表坂


二の門櫓と大天守

二の門櫓 乾櫓
城は大天守と小天守が連結式に建てられ、更に天守群と2棟の櫓群が渡櫓によって連ねられた連立式と呼ばれるもの。姫路城、松山城と並び日本三大連立式平山城の一つであるが戦災で焼けてしまったために国宝の指定を解除された。

乾櫓


御橋廊下
御橋廊下は、二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸をつなぐ橋。橋を板塀で囲み屋根を付けて、外部から見えないようになっている。
なお、橋は約11度の角度で斜めになっている。平成18(2006)年4月復元


岡口門(重要文化財)
浅野幸長の時代(1605〜1619)には大手門として使用されていたが、その後、一の橋に大手門を造営したことから搦手門(裏門)となった。
元和7(1621)年に徳川頼宣が行った城の大改修時に櫓(やぐら)をのせ櫓門となった。

追廻門
追廻門は、冠木門(かぶきもん)ともいい、その昔、砂の丸に乗馬の稽古場があり、馬を追い回したことからそう呼ばれた

 

石垣

和歌山城の石垣のうち、約2100個に刻印があることが判明している。浅野家の時代の家臣の刻印とも言われている
 

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                                                   (14.03.24) .

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