現存天守閣・12名城めぐり(兵庫県・姫路城)    .


(兵庫県姫路市  



姫路城は2009年(平成21年)10月9日から2014年(平成26年)まで約5年間をかけて「平成の大修理」が行われました。2010年4月から大天守は鉄骨と鉄板の「素屋根(すやね)」で上からすっぽり覆われるというので、2009年春に桜の咲いている時期に行きました。
ところが、「美人?薄命」を長年続けているカミさんから、死ぬまでにもう一回見ておきたいというので2010年に再び出かけました。修理が完成する5年後といえば相当足腰弱っているはずなので、これが見納めかも・・・と。
しかし、修理後の姿を見るために2014年7月と2019年8月に訪れました。



平成の大修理が終わった姫路城(2014.7.28)
この時は外観見学のみが可能で天守は工事中で入れなかった


漆喰(しっくい)で全体的に白く見えるが、これは創建当時の姿。
(数年で漆喰が汚れ見慣れた姿になってしまうそうだ)



平成27(2015)年3月26日に大天守の修理が完成



大天守(2019年8月)


天正8年(1580)約420年前、羽柴秀吉が黒田官兵衛孝高のすすめに従い、西国支配の根拠地として3層の天守を築きました。

現在の姿を持つ大城郭を築いたのは、織田信長・豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川方について戦功のあった池田輝政(1564-1613) です。
関ヶ原の合戦後、徳川家康の娘婿である池田輝政は播磨52万石を領する姫路城の城主となりました。輝政はその豊かな財力と徳川幕府を背景に8年の歳月をかけ5層7階の大天守を築城。
輝政は慶長18年(1613)1月25日、姫路城で没した。50歳。

池田輝政の死後、池田輝政の嫡男池田利隆の長男・光政が城主となるが鳥取へ転封。本多忠政が姫路城主へ。その子忠刻の奥方に千姫(徳川秀忠の長女)を迎え、「化粧櫓」や「西の丸」一帯を築き、元和四年(1618)今日の全容を持つ姫路城が完成した。




乾小天守と大天守
乾小天守は三小天守の1つで天守台の西北隅(乾の方角)に位置しています。
大天守は外観5重・内部は地下1階・地上6階の造りになっていて、最上階の大棟両端には阿吽(あうん)一対の大鯱瓦(しゃちがわら)を飾っています。外観は千鳥破風(ちどりはふ)・大千鳥破風・唐破風(からはふ)を組み合わせ、調和のとれた非常に美しいものになっていて別名「白鷺城」とも呼ばれています。



桜門橋


三の丸からの姫路城


縄張り図


桜の時期の姫路城



菱の門

姫路城内で最も大きな門。二の丸の入口を固めた門で、両柱の上の冠木に木彫りの菱の紋のあることから、この名前が付いています。


扇の勾配

石垣が上にいくほど扇形に広がることから付けられた。敵に石垣をよじ登らせないための工夫といわれている。



大天守

姥が石
秀吉築城の際、石集めに苦労してたときに、貧しい老婆が商売道具の石臼を寄付したことから、多くの石が集まって石垣が完成したと伝えられています。


油壁
姫路城の壁はほとんどが白漆喰の壁ですが、「ほ」の門の内側は粘土に豆砂利を米のとぎ汁で固めたもので秀吉築城の名残りのものといわれているとか




西の丸御殿


西の丸御殿縄張り
徳川家康の孫・千姫と結婚した本多忠刻の住まいとして姫路城の東側にあった山を造成して新たな曲輪(西の丸)を建造した。


西の丸・渡り櫓


西の丸

西の丸長局(百間廊下)




西の丸からの姫路城

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