天正8年(1580)約420年前、羽柴秀吉が黒田官兵衛孝高のすすめに従い、西国支配の根拠地として3層の天守を築きました。
現在の姿を持つ大城郭を築いたのは、織田信長・豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川方について戦功のあった池田輝政(1564-1613) です。
関ヶ原の合戦後、徳川家康の娘婿である池田輝政は播磨52万石を領する姫路城の城主となりました。輝政はその豊かな財力と徳川幕府を背景に8年の歳月をかけ5層7階の大天守を築城。
輝政は慶長18年(1613)1月25日、姫路城で没した。50歳。
池田輝政の死後、池田輝政の嫡男池田利隆の長男・光政が城主となるが鳥取へ転封。本多忠政が姫路城主へ。その子忠刻の奥方に千姫(徳川秀忠の長女)を迎え、「化粧櫓」や「西の丸」一帯を築き、元和四年(1618)今日の全容を持つ姫路城が完成した。 |
|
|
乾小天守と大天守
乾小天守は三小天守の1つで天守台の西北隅(乾の方角)に位置しています。
大天守は外観5重・内部は地下1階・地上6階の造りになっていて、最上階の大棟両端には阿吽(あうん)一対の大鯱瓦(しゃちがわら)を飾っています。外観は千鳥破風(ちどりはふ)・大千鳥破風・唐破風(からはふ)を組み合わせ、調和のとれた非常に美しいものになっていて別名「白鷺城」とも呼ばれています。
|
|