千早城址
元弘3(1333)年、鎌倉幕府の大軍(数百万騎?)が千早城に攻め寄せたが、1000人ほどの籠城した楠木軍が藁人形に鎧兜などを着せて大群のように見せかけたりして幕府軍を苦しめた。
この間に全国的な討幕の機運が高まり、元弘3(1333)年に鎌倉幕府は滅亡した |
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千早城は、鎌倉時代末期より南北朝時代に活躍した楠木正成(くすのきまさしげ)が築いた城。
城のある場所は、大和国五条と河内国大ケ塚・富田林を結ぶ最短ルートとして、昔から交通、軍事の要衝であった千早街道沿いにある金剛山の中腹にあった。
城は金剛山を背後に、北谷川と妙見川による深いV字型の谷に挟まれた城域は三方急崖となっている要塞の地となっている。
城の周囲は約4km。金剛山(標高1125m)の中腹にある城は標高は673mのところにあり、大手口からの比高は175mとなっている。
本丸跡には正成を祀った千早神社がある。
金剛山イラストマップ
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