城下町てくてく歩き(松阪城) .
城を訪ねて、てくてく旅

(三重県・松阪市)
 


松阪城跡
中御門跡
豊臣秀吉は、信長の死後秀吉に組した近江・日野6万石の蒲生氏郷に伊勢松ケ島12万石を与えた。
そこで氏郷は、海側の松ヶ島は防御と発展性に欠けるとして、より強固な城を求めて天正16(1588)年に飯高郡矢川庄・四五百森(よいほのもり)に松阪城を築城した。

その後、天正18(1590)年に氏郷は小田原征伐で功をあげ会津若松へ60万石を与えられて栄転。
氏郷の後は
 天正19(1591)年服部一忠が入城するが豊臣秀次事件に連座し自害
 文禄4(1595)年に古田重勝、重勝の死後は弟・重治
と城主が変わり、元和5(1619)年に徳川御三家の一つ紀州藩領となり、南伊勢国内17万9千石を統括するために城代が置かれた。

城内には3層5階の天守と金の間・月見・太鼓等の櫓があったが、正保元(1644)年の台風で天守は倒壊したと伝えられている。
また、二の丸には寛政6(1794)年に建立された徳川陣屋があった。
明治4(1871)年、廃藩置県により廃城。
明治14(1881)年に城跡公園となった。
    (松阪城跡解説案内板から転載補足)
[蒲生氏郷]
 13歳 の時、織田信長の人質になるもその才を買われ次女冬姫をめとった。本能寺の変で信長 が亡くなると秀吉と信長の弔い合戦で戦功をあげる。



松阪城跡



城は北を大手、南を搦手とし、本丸・二の丸・隠居丸・希代丸・出丸・三の丸より成り、本丸・二の丸・希代丸・隠居丸・出丸には高い石垣を築き、三の丸の外郭に水堀をめぐらせていた。
なお、敷地内にある本居宣長旧宅は、明治42年に保存のために松阪城跡の現在地に移築された




表門跡



石垣の上は本丸

本丸への石段


本丸跡

本丸のそばにある天守閣跡

天守台からの本丸

散見櫓跡

きたい丸跡には梅林となっていて梅が満開であった

二の丸下のみごとな石垣

本居宣長旧宅

江戸時代の国学者本居宣長が12歳から72歳で亡くなるまで過ごした住居。53歳の時、ここの2階を書斎に改造して「鈴屋(すずのや)」と号した






本居宣長旧宅

明治42年、保存のために松阪城跡の現在地に移築

御城番屋敷

御城番屋は、江戸末期に松坂城の警護のため紀州藩士とその家族が住んでいた武家屋敷。



20人余りの藩士とその家族が住んでいた

屋敷内



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