城下町てくてく歩き(名古屋城・本丸御殿) 
城を訪ねて、てくてく旅
  (愛知県・名古屋市)
 
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焼失前の名古屋城と本丸御殿(手前)
慶長17(1612)年に完成した天守は、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲により天守閣、本丸御殿ともに焼失してしまった。


本丸御殿
名古屋城・本丸御殿HP


名古屋城と再建された本丸御殿
名古屋城の本丸御殿は、当初、尾張藩初代藩主・徳川義直の住居であったが、名古屋が東西の中心に位置する場所にあったので将軍上洛時の宿泊用御殿として改築された。

御殿の内部は、狩野貞信や狩野探幽などの「狩野派」の絵師たちにより、部屋ごとに異なる題材で床の間絵、襖絵などが描かれ、絢爛豪華に彩られていた。
昭和5(1930)年には国宝第一号に指定されていたが、 昭和20(1945)年5月14日の名古屋大空襲により、大天守とともに本丸御殿などが惜しくも焼失してしまった。(天守は昭和34(1959)年に鉄筋コンクリートで再建)
名古屋城では空襲に備えて、取り外しが可能な殿中の障壁画・襖絵などを事前に運び出したとのこと。このため多くの作品(1047面)が無事であったという。
そして、平成20(2008)年から本丸御殿の復元建築が進められ、平成30(2018)年6月に完成した。
また、平成4年から障壁画などの復元模写も同時に進めらていた。
現代の名工たちが当時の伝統的技法を用いて障壁画、襖絵などを見事に復元している。

この本丸御殿は必見の場所ですね。
 
本丸御殿案内図


本丸御殿車寄せ
車寄せは杮葺(こけらぶき)で中央部に丸みのある唐破風で弓形に美しく反り返った曲線が特徴の玄関です。




玄関・一之間
車寄せを入ってすぐにある部屋で待合室となっています。中は、一之間、二之間の二部屋からなり、襖や壁は金地の障壁画「竹林豹虎図」が描かれています。また、虎が描かれていることから「虎之間」とも呼ばれています。


竹林豹虎図



玄関 二之間

表書院
藩主と家臣などの謁見に使用された場所。江戸時代には大広間と呼ばれ、上段之間・一之間・二之間・三之間・納戸之間で構成されていた。


表書院上段の間


表書院一之間
一之間は「桜花雉子」が描かれている

三之間はじゃ香猫図が描かれている


二之間東側襖絵


対面所(謁見間)
創建時には、本丸御殿の中で最高格式の場所で、藩主が身内や家臣との私的な対面や宴席に用いた場所
この対面所には、上段之間、次之間、納戸一之間、納戸二之間の四部屋があり、上段之間及び次之間の障壁画には、狩野派の絵師(狩野甚之丞?)による京都及び和歌山の四季の風物や名所、風俗が描かれている。また、天井は、黒漆塗の天井板に金箔が貼られた豪華な折上小組格天井となっている。



対面所の次之間(風俗図・和歌山の名所などが描かれている)


上段之間
徳川義直が着座した部屋

上段之間(京都の景色などが描かれている)


二重折り上げ小組格天井も見事!


 下御膳所
藩主の料理の配膳などのために使われた部屋。
長囲炉裏が備えられており、料理の配膳や温め直しを行った場所。天井には煙り出しがある


上洛殿
寛永11(1634)年の三代将軍家光の上洛に合わせて増築された建物。家光の御座所となった上段之間をはじめ、一之間、二之間、三之間、松之間、納戸之間で構成されている。
室内は狩野派の絵師による襖絵・天井板絵が描かれ、色鮮やかで豪華な彫刻欄間や飾り金具等で彩られた室内となっている。特に、狩野探幽によって描かれた「帝鑑図」や「雪中梅竹鳥図」などの復元模写は当時の趣を再現していて必見ですね。


上洛殿への鷺之廊下は金箔の障壁画で囲まれている

欄間が見事な一之間(奥は上段之間)
襖(右側)には狩野探幽の帝鑑図が描かれている



古代中国の朝廷を描く「帝鑑図」(狩野探幽)  
(C)名古屋城

雪の「雪中梅花鳥図」    (C)名古屋城



将軍御座所・上段の間


見事な欄間
上洛殿の欄間は、現代の名工たちが創建当初の姿を再現した彫刻で、極彩色で彩色された鶴や松などがとても見事です。欄間の裏側と表側を一つづつみていても飽きないですね。


極彩色の欄間(富山県井波の欄間彫刻で再現)






東南隅櫓

表二乃門

五層五階の大天守台には金の鯱が輝いていた

天守台内は資料館になっている
、、


木造で作り直される天守。これで見納め。

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