城下町てくてく歩き(名古屋城) 
城を訪ねて、てくてく旅
  その① (愛知県・名古屋市)
 
   本丸御殿→ 
 


名古屋城は、徳川家康が天下統一の最後の布石として築いた城。
江戸幕府が体制を確立する激動の時代に、濃尾平野を見晴るかす高台に忽然と巨大な城郭が誕生



五層五階の大天守台
昭和20(1945)年5月14日の名古屋大空襲により、名古屋城の大天守、小天守、本丸御殿などが焼失してしまった。現在の天守は昭和34(1959)年に再建(コンクリート)されたもの。
なお、現在の天守は老朽化により取り壊されることになり、木造による天守として2022年12月の天守閣竣工を目指すことになっている。


那古屋城

 名古屋城の前身である「那古屋」城は、大永元年に今川義元の父である駿河・遠江守護「氏親」が尾張に侵入し、名古屋台地西北端に築いたもの。
氏親は一族である今川氏豊を城主として守らせていたが、天文元年、氏豊は織田信秀に城を奪われ、以後織田信秀の居城となった。 信秀の嫡男信長は、天文3年にこの那古屋城で生まれた。 
同年、信秀は今川に備えるため古渡城を築いて移り、信長が城主となった。

 弘治元年、織田信長は清洲城へと居城を移し、那古屋城へは叔父の織田信光が入ったが、その後廃城となった。

名古屋城

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦での勝利を経て江戸に幕府を開いた徳川家康は、大坂城の豊臣秀頼との武力衝突に備えて、濃尾平野の要地に大規模な城郭を築城することを考えていた。
すなわち、大坂方の前線基地にある清洲城は、大軍を収容できる規模がなく、しかも五条川に臨む低地にあるため、しばしば水害にも見舞われていた。そこで、小牧・古渡・那古屋の中から今川氏が築いた那古屋城址に築城を決定した。
そして、徳川家康の命により諸大名を動員した「天下普請」として築城が行われ、西国の20大名・・・・前田・加藤・福島・細川・黒田等の豊臣恩顧の大名達に助役を命じ、約3年の歳月をかけて完成した。


本丸御殿復元完成 
昭和20(1945)年5月14日の名古屋大空襲により、名古屋城の本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼失してしまった。
本丸御殿の復元が、平成20(2008)年に着工され平成30(2018)年に完成した。
戦災を免れた障壁画の復元模写も同時に進めらており、本丸御殿の障壁画などが見事に再現されている。
その見事な出来栄えに感動しました。


城の縄張りは肥後熊本の加藤清正
同行のガンちゃんは熊本出身の江戸っ子?
郷土の英雄の前で記念写真





東南隅櫓

表二乃門

五層五階の大天守台には金の鯱が輝いていた
名古屋城の縄張は普請奉行の一人である牧長勝。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は普請助役として加藤清正が築いた。



天守台内は資料館になっている

大天守からみる名古屋市内

 城を訪ねて三千里 TOP  名古屋城本丸御殿
  | 画面上部へ戻る  |  |  |  091207

inserted by FC2 system