城下町てくてく歩き(掛川城)   .
城を訪ねて、てくてく旅

(静岡県・掛川市)
 


掛川城
山内一豊が小田原の役後、豊臣秀吉から掛川城主を命ぜられ、このとき天守閣(1591〜1596)や大規模な城郭修築を行い城下町を整備した。




現在の掛川城
天守閣は平成5年に日本初の本格木造により復元された




掛川は東海道53次の26番目の宿場町。

東海道・東西の要衝の地として、文明年間(1469〜1485)から城としての形態が形成されつつありました。
 1590年代に、豊臣秀吉の家臣であった山内一豊が城主となり、掛川城の大規模な城郭修築を行い、天守閣、大手門の建設と共に城下町の整備により、東海の名城とも呼ばれていました。

1600年(慶長5年)の関が原戦後、一豊が20万石大名として土佐へ移った後の城主には徳川譜代の大名(松平、青山、北条、井伊、小笠原など)が任じられた。
延享3年(1746)からは江戸城を築いた太田道潅の子孫が城主となり、明治維新まで藩政をつかさどった。
掛川城は江戸時代11家26代にわたり徳川家主要な大名が任じられた東海道の要衝の地であった。

当時の建築物として現存しているのは掛川城御殿、太鼓櫓、大手門番所。


旧天守閣は、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊。
平成2年8月から平成5年(1990〜1993)にかけて、幕末の絵図などの史料を元に日本初の本格木造により考証復元された。平成7年6月には大手門も復元された。



日本初の木造建築による天守閣

掛川城御殿

掛川城御殿
嘉永7年(1854)の大地震で倒壊したため、安政2年(1855)から文久元年(にかけて再建された。
京都の二条城など御殿建築としては全国で数カ所にしか残っていない大変珍しいもので、昭和55年国指定の重要文化財となっている。。

掛川城御殿内部
江戸時代の大名の生活がしのばれる貴重な建物。
院造と呼ばれる建築様式で、畳を敷きつめた多くの部屋がつらなり、各室は襖によって仕切られている。


御殿から見た掛川城


掛川駅前にある二宮金次郎像
二宮金次郎の指導を受けた、報徳運動の元祖
岡田佐平治氏が掛川市出身だったことから
掛川市に大日本報徳社の本社がある



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