城下町てくてく歩き(一乗谷) .
城を訪ねて、てくてく旅

(福井県・一乗谷)
 


一乗谷・朝倉義景館跡の唐門
唐門は、義景の菩提を弔うために建てられた松雲院の山門を移築したもの

国指定特別史跡・特別名勝となっている一乗谷は、戦国大名・朝倉孝景から5代約100年にわたって朝倉氏が越前(福井県)一帯を支配した城下町下城戸から上城戸まで約1.7kmの狭い土地に、往時は1万人余りが生活していたという。
昭和43年(1968)から発掘調査が始まり、一乗谷川沿いの狭い地域に朝倉義景館をはじめ、武家屋敷、町家、神社仏閣などが整然と配置されていたのが発見された。
発掘された一部に往時の建物を建造し復原町並みとして保存している。
また、朝倉館の後方の山に一乗谷城・本丸、二の丸を構えていたという。


十数年前に、会社の部下の結婚式が福井であった。その時の帰路に結婚式に参加した同僚数名とここを訪れた。この風景は大きく変わっていなかったけれど、あれから皆さんどうしているのかなぁとフと思った。



一乗谷復原武家屋敷
復原町並みは南北250m、東西100mにわたって、発掘された建物礎石や塀の石垣、道路を使って当時の町並みを再現している



一乗谷の城下町
一乗谷の城下町は、下城戸から上城戸までの約1.7kmの狭いところにあった。



一乗谷復原町並み施設
朝倉氏5代
初代 朝倉孝景
2代 朝倉氏景
3代 朝倉貞景
4代 朝倉孝景
5代 朝倉義景

発掘された町並みから鍛冶屋、紺屋、陶器屋など中世の様々な商家の存在が明らかになった。

家には井戸が備えられている



商家の町並の先に武家屋敷(復原)が並ぶ

塀の中は発掘された武家屋敷跡


武家屋敷

塀の石垣や建物礎石をそのまま使用し、柱や壁、建具なども出土した遺物を参考にして復原されている

武家屋敷内

武家屋敷内・主殿で将棋を興じる武士

武家屋敷の台所



朝倉義景館・唐門
館は東側の山城を背にし、その山裾の平坦地に約100m四方にわた造営されている。山側の東を除く三方に高さ約1.2〜3mの土塁を廻し、その周りを幅約8m、深さ約3mの濠をめぐらしている。


館跡の礎石は平成5年(1993年)に発掘された
朝倉義景館跡は常(つね)御殿を中心にして17の建物がここに建てられていた。館の南側は主殿、会所、茶室と花壇や庭園などが配置され、北側には台所や厩、湯殿、藏などが建てられていた。

朝倉義景の墓所
館跡にある義景の墓は天正4年村人の建てた小祠が始まりで、寛文3年(1663)福井藩主松平光通によって現在の墓塔が立てられた

 【朝倉家の滅亡】
将軍・足利義昭は朝倉義景をはじめとして諸大名に「信長討つべし」という「御内書(将軍からの公式な命令書)」を密かに送っていた。これを知った信長は、天正元(1573)年8月、密書に呼応した朝倉義景を攻めて一乗谷へ追い詰めた。義景は再起を図るべく大野へ逃亡を図るが、その途中、家臣(従弟)の 朝倉景鏡 の寝返りにより、自刃し朝倉家は滅亡した。
主がいなくなった一乗谷は信長軍により放火され、三日三晩燃え続けた末に跡形もなく消え去ったという。その後の城下町は住む人もなく次第に田畑・原野となってそっくり埋もれてしまった。 
そして、約400年後(1968年)に・・・・・・・。

 

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