城下町てくてく歩き(高遠城)   .
城を訪ねて、てくてく旅

(長野県・伊那市)
 


問屋門と桜雲橋
高遠城跡のシンボルである問屋門。この門とコヒガンザクラは有名。
コヒガンザクラは明治8年、荒れ果てていた高遠城址をなんとかしようと、旧藩士たちが馬場の桜を城址に移植したのが始まりといわれている。



高遠閣〜登録有形文化財
間口14間(25.4m)、奥行9間(16.4m)、峯高10間(18.2m)
木造総2階建、入母屋造、鉄板葺(建築当時はこけら葺)の建物で、大正・昭和初期の希有の建物とし、平成14年8月21日に国の登録有形文化財として登録された


高遠城

高遠城は武田信玄の対織田・徳川勢力の重要な軍事拠点であったために、戦国時代の小説に頻繁に出てくる有名な城。 兜山城の別名をもつ。
現在は、桜の名所としても有名。


室町期から戦国の初期にかけて諏訪氏の一族高遠氏がこの一帯を領していたが、1545(天文14)年、高遠頼継(よりつぐ)のとき甲斐国守護の武田信玄に滅ぼされた。

1547年に高遠城は武田信玄、勝頼に仕えた重臣で、武田二十四将の一人でもあった秋山信友、山本勘助らによって築かれた。
城は本丸、二の丸、三の丸のほか、法幢院(ほうどういん)・笹・南・勘助曲と呼ばれる曲輪があり、自然地形を巧みに生かした甲州流の城構えとなっている。信玄は遠江(とおとうみ)、三河に進出する拠点としてこのような大規模な城を築いたといわれている。


現在、城址(じょうし)には太鼓櫓(たいこやぐら)、城門が残り、城址公園は桜の公園として知られている。



1562(永禄5)年、四郎勝頼(武田勝頼)が諏訪氏を継承し、同時に高遠城主となり、城主であった秋山は飯田城代へ。
その後、勝頼が武田家の後継となり、躑躅が崎へ移り、高遠城主は信玄実弟の武田信廉となった。

1582(天正10)年2月織田信長の武田攻めにより、武田氏は滅亡した。
1590年に保科正光は関ヶ原の戦いの功により、旧領高遠3万石に復し、継母の縁により将軍秀忠(ひでただ)の第3子・(保科正之)を養嗣子とした。その保科正之は会津松平家初代藩主へ。
保科氏のあと鳥居氏が入城し、1691年(元禄4年)に内藤清枚が3万3千石で入封。以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えた。

本丸には天守閣はなく、平屋造の御殿や櫓、土蔵などがあったが、明治4年(1871年)の廃藩置県で、城は取り壊されてしまった。


本丸跡にある新城藤原神社
高遠城の戦いで織田信忠の大軍を前に、降伏の勧めも拒絶し壮烈な最後を遂げた武田信玄の五男・仁科五郎盛信をまつった神社。
1828(文政11)年に城主の内藤頼寧(よりやす)が、盛信の霊を城内に祀り崇拝したことに始まる。



高遠城下、本町の問屋役所にあった問屋門で、昭和23年ここに移設。

問屋門

桜雲橋

堀から見上げる天下第一桜

問屋門と桜雲橋

二の丸と本丸に架かる桜雲橋



コヒガンザクラ

太鼓櫓
藩政時代には搦手門(からめてもん)内に太鼓を置き、時を城下に知らせていた。
この櫓は明治45年に再建された。



天下第一の桜碑

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