慶長5年(1600)8月、関ヶ原の戦いで、徳川家康の東軍は東海道を、徳川秀忠軍は中山道を経由して行くことになった。
秀忠は碓氷峠を越えて小諸城に着陣。
そして、西軍に加勢した真田昌幸の籠る上田城を避けて木曽路を通り、美濃へ向かって家康軍と合流する予定であった。
真田昌幸の長男の信幸(のち信之)には、家康の養女である本多忠勝の娘を、次男幸村
は、秀吉の家臣である大谷吉継の娘を娶った関係上、関ヶ原合戦においては、父真田昌幸と二男幸村
は西軍に加担。
しかし、目の前にいる上田城主・真田昌幸に長男信幸と本田忠政(忠勝の長男)は、降伏を勧告し城明け渡しを要求したものの、これを拒絶される。 |
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9月6日に、上田城攻めが開始されるが、 秀忠軍38,000の軍勢に対し、真田軍はわずか2,500で応戦。
真田戦法に日時を浪費するのみで上田城を攻略することができず、秀忠はこれをあきらめ小諸城を9月11日に出発。上田領を避け17日妻籠宿に到着したときに徳川秀忠は東軍大勝利という関ヶ原の報に接する。
徳川家康は、アタマにきてに秀忠に当分の間、面会しなかったという話は有名ですが・・・。
関ヶ原の合戦後、西軍に加勢した真田昌幸・真田信繁(幸村)父子は高野山(九度山)へ追放され、上田城は徹底的に破却されてしまった。 |