城下町てくてく歩き(上田城) .
城を訪ねて、てくてく旅

(長野県・上田市)
 


上田城北櫓


上田城は、武田氏の旧臣である真田昌幸により、1583年(天正11年)に築城された。

真田昌幸が二度にわたる徳川軍の攻撃を撃退したいわゆる「上田合戦」が行われたことで有名。
その後、西軍についた昌幸・幸村父子が追放され、跡目を継いだ長男・真田信之は信濃国松代へ転封された。


慶長5年(1600)8月、関ヶ原の戦いで、徳川家康の東軍は東海道を、徳川秀忠軍は中山道を経由して行くことになった。

秀忠は碓氷峠を越えて小諸城に着陣。
そして、西軍に加勢した真田昌幸の籠る上田城を避けて木曽路を通り、美濃へ向かって家康軍と合流する予定であった。

真田昌幸の長男の信幸(のち信之)には、家康の養女である本多忠勝の娘を、次男幸村 は、秀吉の家臣である大谷吉継の娘を娶った関係上、関ヶ原合戦においては、父真田昌幸と二男幸村 は西軍に加担。

しかし、目の前にいる上田城主・真田昌幸に長男信幸と本田忠政(忠勝の長男)は、降伏を勧告し城明け渡しを要求したものの、これを拒絶される。
9月6日に、上田城攻めが開始されるが、 秀忠軍38,000の軍勢に対し、真田軍はわずか2,500で応戦。 真田戦法に日時を浪費するのみで上田城を攻略することができず、秀忠はこれをあきらめ小諸城を9月11日に出発。上田領を避け17日妻籠宿に到着したときに徳川秀忠は東軍大勝利という関ヶ原の報に接する。

徳川家康は、アタマにきてに秀忠に当分の間、面会しなかったという話は有名ですが・・・。

関ヶ原の合戦後、西軍に加勢した真田昌幸・真田信繁(幸村)父子は高野山(九度山)へ追放され、上田城は徹底的に破却されてしまった。




上田城北櫓



南櫓(左)、東虎口櫓門(中央)、北櫓(右)

本丸跡

真田石
上田城東虎口櫓門の正面右手の石垣にある大石。高さ約2.5m・横約3m。
真田 昌幸が築城の折り柱石として据えたものと伝えられている。元和8年(1622)、真田信之が 松代へ転封に当たって父の形見に持ち運ぼうとしたが、どうしても動かなかったという。

西櫓

南櫓

真田神社

真田神社・真田井戸
この井戸は、城北の太郎山の砦に通じている抜け穴だったと言われている


海野宿

海野宿(小諸・上田の間にある
江戸初期に北国街道の宿駅として開設。
伝統的な家並みが今なお残り、「日本の道百選」や
「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。


宿屋が続く街並み。
この家並みをみて、宿屋のおやじと客のやり取りが見事な志ん朝師匠の落語「抜け雀」を思い出しました。

うだつ
「うだつ」は隣家との境界に取り付けられた土造りの防火壁のこと。これを造るには費用が相当かかったため、裕福な家しか造れなかった。「うだつが上がる」ということは富の象徴のこと。


お昼は上田市内で有名な「刀屋」さんで。
8年ぶりで訪れました。
(池波正太郎さんが通ったというお蕎麦屋さん)


普通盛でこのボリューム
みそだれが美味しい真田そば900円

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