城下町てくてく歩き(小田原城). 



城を訪ねて、てくてく旅

2019版 (神奈川県・小田原市)
 


小田原城

元禄16(1703)年の元禄大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失してしまった。その後、天守閣は宝永3(1706)年に再建され、明治3(1870)年の廃城令により城内の建造物はほとんど取り壊されてしまった。
 現在の天守閣は、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)などを参考に、昭和35(1960)年5月に、市制20周年の記念事業として外観復元(鉄筋コンクリート)されたもの。



小田原城
現在の天守閣は昭和35年(1960)5月に外観復元されたもの




武田信玄、上杉謙信といった戦国武将たちの攻撃にも耐えた北条五代の小田原城。

伊勢早雲(北条早雲)が、明応4(1495)年に大森氏を破り、北条氏の居城となってから関東支配の拠点として整備された。

その後、天正18(1590)年、秀吉は天下統一の仕上げとして小田原攻めを開始。
北条氏政と当主氏直は籠城戦で対抗したが、秀吉は圧倒的な物量戦で関東各地の北条氏の支城を各個撃破し、3か月の籠城戦の末にほとんど無血で開城させた。
なお、その際、北条側が和議or抗戦かをめぐって堂々巡りの議論をして一向に結論が出なかったことを「小田原評定」という。

 北条氏が滅亡後、秀吉から関東を与えられた徳川家康は重臣・大久保忠世に小田原城を任せて江戸城の前線基地として守らせた。
その後、一時、稲葉氏が入城し大改修が行われた後、再び大久保氏の城となり、幕末まで存続した。

小田原城天守閣からの駿河湾

小田原城天守閣からの石垣山一夜城方向












銅(あかがね)門に架かる住吉橋と内仕切門
二の丸と馬屋曲輪の出入り口の銅門は内仕切門及び櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる堅固な造りとなっている。住吉橋は平成6年に復元。


銅門(あかがね門)
内仕切門を抜けると枡形になっており、この枡形に敵が侵入すると、銅門の櫓および 土塀の狭間(さま)と呼ばれる穴から一斉攻撃を受けてしまうような造りとなっている。
この銅門は昭和58(1983)年から行われた発掘調査および古写真、絵図などを参考にして平成9年に復元された。
櫓門の大扉には門の名前の由来となった銅金物が施されている。



二の丸側からの銅門



常盤木門前の梅

土塀の構造



常盤木橋と常盤木門(中央上)

常盤木門
小田原市制30周年事業により昭和45(1970)年再建。
多聞櫓と渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていた


常盤木門(本丸側から)


常盤木門のそばに往時から松が植えられています。この松の木が常緑樹でもあり何十年も生きながらえることになぞらえて、小田原城の永遠の繁栄を願って命名されたものだといわれています。
(常盤木とは常緑樹の意味)


本丸跡と小田原城天守

複合式層塔型3重4階の天守

天守からの相模灘



二の丸


二の丸の南東角にある隅櫓
1934(昭和9)年復元。二の丸南東角にある櫓で、関東大震災で倒壊するまで小田原城で唯一、残存していた櫓。


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