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武田信玄、上杉謙信といった戦国武将たちの攻撃にも耐えた北条五代の小田原城。
伊勢早雲(北条早雲)が、1495(明応4)年に大森氏を破り、北条氏の居城となってから関東支配の拠点として整備された。
その後、1590(天正18)年、秀吉は天下統一の仕上げとして小田原攻めを開始。
北条氏政と当主氏直は篭城戦で対抗したが、秀吉は圧倒的な物量戦で関東各地の北条氏の支城を各個撃破し、3か月の篭城戦の末ほとんど無血で開城させた。
なお、その際、北条側が和議or抗戦継続をめぐって堂々巡りの議論をして一向に結論が出なかったことを「小田原評定」という。
北条氏が滅亡後、秀吉から関東を与えられた徳川家康は重臣・大久保忠世に小田原城を任せて江戸城の前線基地として守らせた。
その後、一時、稲葉氏が入城し大改修が行われた後、再び大久保氏の城となり、幕末まで存続した。 |
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小田原城天守閣からの駿河湾 |
小田原城天守閣からの石垣山一夜城方向 |
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常盤木門
小田原市制30周年事業により1970(昭和45)年再建。
常盤木とは常緑樹の意味で、門の横にあった松の木が常に緑色をたたえ何十年も生長することより、小田原城の永遠の繁栄を願って命名されたものだとか。
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銅門(櫓門)
復元された銅門。櫓門の大扉には門の名前の由来となった銅金物が施されている。 |
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銅門・二の丸の表門
1997(平成9)年復元。小田原城二の丸の表門で、内仕切門と櫓門、そして石垣による桝形を組み合わせた、桝形門形式です。 |
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銅門・二の丸の表門 |
平櫓 |
1934(昭和9)年復興。二の丸南東角にある櫓で、関東大震災で倒壊するまで小田原城で唯一、残存していた櫓。 |
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