城下町てくてく歩き(江戸城) .
城を訪ねて、てくてく旅
(東京都・千代田区)
 
|◆ 江戸城 準備中 |◆ 乾通り・春(2016) 


江戸城・天守台
江戸城天守閣は明暦3(1657)年のいわゆる振袖火事で焼失してしまった。、その後、経済的な理由で天守は再建されることはなかった。

江戸城・天守台

皇居・坂下門
(2016年春の一般開放)

江戸城は、12世紀半ば(平安時代末期)に、武蔵国・江戸郷を拝領した江戸重継が居館を構えたのがその始まりといわれる。

時代は遡って、康正2(1456)年から長禄元(1457)年にかけて関東管領陣営の太田道真・道灌父子は武蔵国で河越城、岩槻城
*を築城し、その後、古河公方側の有力武将である房総の千葉氏を抑えるため、両勢力の境界点である利根川下流域に城を築くことになった
そこで太田道灌は、江戸氏の領地であった武蔵国豊嶋郡(千代田区)に目をつけてに江戸城を築城した。
*:岩槻城は太田道灌によって築城されたとされていたが、最近になって、道灌と対立した古河公方足利成氏方の忍城・城主成田正等によって築城されたとする資料が見つかった。

そして、さらに時代は進んで、天正18(1590)年の豊臣秀吉の小田原攻めによって北条氏が滅亡した。その際、駿府から徳川家康には関八州が与えられこの地へ入府した。
家康は、荒れるに任せていた江戸城を慶長8(1603)年から天下普請として整備し、城の拡張とともに慶長度天守(1607)を建築した。
また、慶長20(1615)年の大阪夏の陣で豊臣家が滅んだあとには次々と城を整備し、そして秀忠により元和8(1622)年には本丸拡張工事とともに元和度天守が完成した。(元和度天守は1637年解体)
三代将軍・家光は、寛永15(1638)年に天守台・御殿を修築し、寛永度天守をが完成する。

しかし、明暦3(1657)年の明暦大火(振袖火事)により江戸の大半が焼失し、また、江戸城も天守を含めて御殿の多くを焼失してしまった。
町の復興を優先し、また経済的な理由から天守はその後再建されることはなかった。



江戸城・巽櫓
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