城下町てくてく歩き(佐倉城) .
城を訪ねて、てくてく旅

(千葉県・佐倉市)
 


佐倉城空堀


天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡し、北条氏と姻戚関係のあった千葉氏(第31代当主・千葉重胤)も北条氏とともに小田原城に籠城して運命をともにした。

秀吉の死後、関ケ原の合戦に勝利した家康は、江戸へ幕府を開くことになった。
下総・本佐倉城へは家康の腹心・土井利勝が入封。
利勝は家康・秀忠・家光の側近として仕え、徳川幕藩体制の基礎を固めた人である。
利勝は家康の命により、慶長15(1610)年に千葉氏の居城であった本佐倉城から4.1km先の鹿島台に新たに佐倉城の築城を開始して6年余で完成させたと伝えられている。
以来佐倉城は、西の小田原、北の川越などと共に江戸城を取り巻く要衝として、徳川譜代の有力大名が次々と封ぜられていた。


現在は城址公園となっている





堀田 正睦(ほった まさよし)
 
1825(文政8)年、下総佐倉藩11万石の第5代藩主として堀田正睦(まさよし/1810〜1864)が16歳で家督を相続した。
困窮する佐倉藩の財政再建に成果をあげ、また、佐倉藩内の蘭学を盛んにしました。
 13代将軍家定の老中首座在任中の1857(安政4)年には開国を迫るアメリカ総領事ハリスと会見、通商条約締結に奔走。日米修好通商条約調印の為の勅許の裁可を賜るために上洛し、あれこれ折衝したものの、勅許の承諾を得られ ずに頓挫してしまいました。そして、井伊直弼が独断で日米修好通商条約締結を結ぶことになり、その後、井伊暗殺の桜田門外の変へ続くのです。
開国に誰よりも 尽力した堀田正睦は、歴史の陰に埋もれてしまったように思えますが、当地では開国の父として尊敬されています。



大手門



二の門


一の門





本丸跡と天守台(御三階櫓)跡
 
御三階櫓                  

三重櫓(御三階櫓)は天守の代用として使用していた。
1813(文化10)年に失火により焼失。



銅 櫓
この楼閣は土居利勝が将軍から拝領し、江戸城吹上庭内から佐倉城本丸に移築したものと言われている

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