城下町てくてく歩き(箕輪城) .
城を訪ねて、てくてく旅

(群馬県高崎市)
 


本丸跡
鉢形城は上州や信州への交通の要衝地にあり、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に城が築かれている。

箕輪城は1512年(永正9年)に在原業平の子孫と言われている長野業尚によって築かれた城。その後4代にわたって長野氏の本拠だった。
永禄9(1566)年に武田信玄に攻め落とされて以降、武田氏、織田氏、北条氏、徳川氏(1590〜1598年)と、その度に各大名の有力家臣が城主として配置された。


そのなかで、箕輪城最後の城主・井伊直政は、徳川家康の家臣のなかでは最大の12万石を拝領した。
しかし、慶長3(1598)年、井伊直政は城を高崎に移し、箕輪城は廃城になった。


現在の城跡は、井伊直政在城当時のもので、昭和62年に国指定史跡に指定され、日本百名城にも選出されている。





箕輪城跡



榛名山の東南麓の丘陵上に築かれた戦国時代の平山城(ひらやまじろ)



箕輪城は東西約500m、南北約1,100m、総面積約36haにおよぶ西上野(にしこうずけ)の中核的な城郭。



北西から南東方向にのびる尾根上に主要な曲輪が配置され、さらに、これらの曲輪の周りには堀が張り巡らされている。



箕輪城搦手口
長野氏・小田原北条氏の時代には、こちら側が大手口(正面)であったといわれている。


二の丸

二の丸跡


二の丸跡

本丸

本丸跡



御前曲輪跡



井戸


本丸と御前曲輪を囲むように、巨大な空堀が設けられている

箕輪城跡御前曲輪の石垣





三の丸門跡と石垣






大堀切
箕輪城は、城の中間に設けられた大堀切によって南北に分断されている。この堀に土橋を設けて行き来していたが、万一、南北どちらかが攻め落とされても土橋を切って戦うことができるように工夫されている


郭馬出西虎口門(櫓門)復元工事
このほか「本丸西虎口門(高麗門)」の木造城門の復元が計画されている。



場内を一周して、搦め手口に戻ってきた


 .           城を訪ねて三千里                             (160406) .

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