城下町てくてく歩き(白河小峰城)   .
城を訪ねて、てくてく旅

(福島県・白河市)
 


小峰城は元和元年(1615)の一国一城令以後に築かれたため、
天守はなく三層三階の三重櫓が天守の役割を果たしていた。
 その三重櫓は戊辰戦争(1868)で焼失。平成3年に日本で初めての木造建築で復元された



複合式層塔型3重3階の櫓で、
当時は「三重御櫓」と呼ばれた



白河城とも呼ばれた小峰城は、南北朝時代の興国元年(1340)ごろ、結城家5代・親朝によって小峰ケ岡に築かれたのが始まりとされる。
現在にその姿をとどめる城郭は天正18年(1590)の豊臣秀吉による“奥州仕置”により、小田原攻めに参陣しなかった理由にて当時の城主・15代結城義親は改易された。
その後、この地は会津領となり、蒲生氏郷、続いて上杉景勝、景勝も減封のため会津を去り、再度、蒲生氏に支配されることとなった。
寛永4年(1627)、 伊達・上杉・佐竹といった奥羽地方の有力外様大名の抑えとし磐城棚倉城(福島県棚倉町)から移封された丹羽長重が二代将軍・徳川秀忠の命を受け寛永6年より4年の歳月を掛けて城は大修築された。
その後、譜代重鎮である徳川四天王のひとり・榊原康政の孫忠次を14万石で入れ、奥羽要衝の地を固めた。
 

さらに、本多氏(2代・本多忠勝の孫と曾孫)、奥平松平氏(1代)、越前(結城)松平氏(3代)、久松松平氏(4代)、阿部氏(8代)と、徳川譜代・親藩大名がこの地を治めた。
なお、久松松平氏3代藩主・松平定信(吉宗の孫・御三卿・田安家からの養子)は11代将軍徳川家斉のもとで老中首座となり「寛政の改革」を行ったことでも有名。。

慶応2年(1866)、阿部氏8代正静は磐城棚倉に移封され、白河の地は天領となり幕末動乱を迎えることになる。

 天領となった白河は岩代・二本松藩主・丹羽氏の預かるところとなったが、奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との約100日に及ぶ戊辰戦争での「白河口の戦い」において、白河小峰城は激しい攻防の舞台となってしまい、慶応4年(1868)5月1日、大半を焼失して落城した。




平成3年(1991)に古図面(白河城櫓建絵図)を元に木造建築様式で再建された三重櫓

前御門は平成6年(1994)に再建

三重櫓の内部。
木造建築で復元されたため重厚な内部となっている

三重櫓(天守)の天井部

 城を訪ねて三千里 TOP
                                                 (060417)

| 画面上部へ戻る  |  |  |
inserted by FC2 system