会津若松城は、「鶴ヶ城」とも呼ばれ、天高く白くそびえ立つ五層五階の天守閣(内部は郷土博物館)は昭和40年に再建され、その後天守に続く「走長屋」、本丸への表門である「鉄門」が復元されています。
さらに、平成13年には、城内にあった11棟の二重櫓の中で最大の櫓であった「干飯櫓」と、本丸鉄門から続く「南走長屋」が、伝統的な木造建築により復元されています。
至徳元年(1384)、蘆名直盛によって築城された黒川館を発祥とし、次第に黒川城として整備が進められていきます。
そして、天正17年(1589)に伊達政宗が蘆名氏を滅ぼして黒川城を手に入れましたが、天下統一目前の豊臣秀吉には逆らえず城を召し上げられてしまいました。
伊達政宗に代わって天正18年(1590)、秀吉は配下の蒲生氏郷をこの地に配し、地名を若松に改称して本格的な天守閣を建造します。
蒲生氏郷没後、その子・蒲生秀行が継ぎますが、お家騒動により宇都宮18万石に移封されてしまいます。
代わって春日山から上杉景勝が120万石に加増され会津へ入城。
しかし、関ヶ原の戦いで石田三成の西軍に味方してしまったため、徳川家康に睨まれ米沢30万石に移封されてしまいます。
代わって再び蒲生秀行が入ります。その後、次男の忠知は伊予(愛媛県)の松山城に移封され、入れ替わりで松山から加藤嘉明が会津へ入城。
その子である加藤明成によって、現在見られる5重の天守閣への改築や、防御が手薄なエリアの石垣の大規模な整備、空掘を水掘に変えるなど城郭を整備しました。 |
|
昭和40年(1965)に再建された鶴ケ城天守閣
(春のさくら祭 【裏クリック】冬の鶴ヶ城) |
|
|
|
ところが寛永20年(1643)に加藤明成は改易され、江戸幕府・3代将軍徳川家光の腹違いの弟である保科正之が、23万石で山形から入城します。
これ以後、明治維新まで会津松平氏の居城となり、幕末には幕府方の中心として奮戦。
戊辰戦争では、板垣退助率いる新政府軍と1ヶ月に及ぶ籠城戦を繰り広げた末に降伏しました。
明治新政府は鶴ヶ城が反政府のシンボルとなることを恐れ、明治7年に天守閣その他の建造物取り壊わしました。
現在の天守閣は、残っていた古写真を元に昭和40年(1965)に鉄筋コンクリート(一部木造)により復元されたものです。
|
|
|
五層五階の天守閣
|
本丸への表門である「鉄門」
北出丸から本丸帯郭を経て本丸に通じる
堅固な櫓門形式の表門 |
春の鶴ヶ城と【裏】冬の鶴ヶ城 |
平成13年に本丸鉄門から続く「南走長屋」が、伝統的な木造建築により復元 |
|
|
冬の鶴ヶ城 |
|
|
|
毎年2月に行われる絵ろうそく祭 |
毎年2月に行われる絵ろうそく祭
|
|
茶室「麟閣」 |
阿弥陀寺 |
茶室「麟閣」
城内には千利休の息子、少庵(しょうあん)が蒲生氏郷のために建てた茶室「麟閣」が平成2年に移築されている。 |
|
阿弥陀寺
JR只見線 七日町駅前にある御三階と呼ばれる、かつて本丸にあった楼閣風の建築が、会津若松城唯一の遺構として残っています |
|
|
|