城下町てくてく歩き(山形城)   .
城を訪ねて、てくてく旅

(山形県・山形市)
 


山形城・二の丸東大手門
平成3年、櫓門・多聞櫓・高麗門・土塀を備えた正門を、日本古来の建築様式により木造にて復元した。(現在の二の丸跡は、鳥居氏時代の遺構)
なお、山形城(霞城)公園は現在運動公園となっている




多聞櫓



11代当主・最上義光(もがみよしあき) の像
山形城は、最上氏の祖「斯波兼頼」が、延文2年(1357)に築城しました。そして山形の繁栄を築いた最上氏11代当主義光は、関が原の戦いで徳川方につき57万石の大名となった。

義光の死から9年後、元和8年(1622年)に最上家は家督を巡る騒動のため改易され、その後の山形城には、鳥居、保科、松平、奥平、堀田、秋元、水野などの12氏が入部した。しかし、たびたび減石されて水野氏の代では最終的にはわずか5万石となっていた。

本丸の石垣修復予想図
山形城(霞城公園)本丸の修復予想図
手前の橋は本丸一文字門橋
山形城は別名『霞城』と呼ばれる。
その理由は、関ヶ原の合戦の際に上杉家・直江兼続軍が山形に侵攻し、西部にある標高402mの富神山(とおかみやま)からお城を十日間山形城を眺めていたが、霞がかかって何も見えなかったことから『霞城』と呼ばれているそうな。
なお、「十日間」というところがミソで、十日見山→富神山になったそうですが・・・。


二の丸東大手門・高麗門
高麗門を入ると内桝形の広場になっている

二の丸東大手門・渡櫓門(枡形内)
鳥居氏時代に外桝形から内桝形に改修された

本丸跡 

本丸整備計画
市民から城に関する古文書の提供を求めています


本丸一文字門橋

二ノ丸からの本丸一文字門橋と一文字門石垣

一文字門橋と一文字門石垣

霞城公園内で石垣の復元工事


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