爺さんぽ/城を訪ねて三千里(盛岡城)
 
城を訪ねて、てくてく旅
(岩手県・盛岡市)
 


盛岡城石垣
2017年3月の春の選抜高校野球でたった10名の野球部員の岩手県立不来方(こずかた)高校が21世紀枠で甲子園へ出場しました。静岡高校に残念ながら12:3で負けてしまいましたが・・・・。

三戸城を居城としていた初代藩主南部信直(のぶなお)は、天正18(1592)年、豊臣秀吉によって岩手・紫波・稗貫(ひえぬき=現在の花巻市)の3郡を与えられた。そして、九戸政実(くのへまさざね)の居城であった福岡城(九戸城を改称)に本拠を移した。
さらに蒲生氏郷や浅野長政らのすすめによって信直は,慶長2(1597)年に不来方(こずかた:現在の盛岡市)に移ることにした。。
2代藩主・利直(としなお)によって慶長3(1598)年から本格的に築城が進められたが、北上川や中津川の洪水にみまわれながら36年後の寛永10(1633)年に完成した。その時、3代藩主・南部重直(しげなお)が入城して以来,藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となった。

北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に内曲輪として本丸・二ノ丸・三ノ丸などを配し,それぞれを大きな石垣で囲んでいる。そして、南部氏一族や藩の重臣たちの屋敷を配置して外曲輪とした。



本丸跡
明治元(1868)年に盛岡城は新政府の直轄地となる。
14代藩主南部利剛は隠居し,15代藩主南部利恭が白石へ転封される。






北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に城は築かれている



石垣は,全て城内とその周辺で産出した花崗岩によって築かれている


石垣は造られた時期によって異なった積み方が見られ,そのまま積み上げる「野面積」、粗く割った石を積み上げる「乱積」、形を整えて積み上げる「布積」が見られる

みごとな石垣


腰曲輪跡


盛岡藩主 南部家の子孫 南部利祥氏が、日清戦争に従軍し、満州で戦死(24歳)。それを悼み明治41年に騎馬像(銅製)を作ったが、第二次世界大戦の戦時動員で銅像は供出され、台座だけが残った。



あずまやが建つこの櫓台は、
御三階櫓(実質上の天守)があった場所

本丸北西端、小納戸櫓 跡。

本丸跡(右上:小納戸櫓跡)


本丸石垣


本丸と二の丸を結ぶ橋

本丸(右)と二ノ丸を隔てる空堀




啄木の歌碑
「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」の歌碑。少年時代の啄木が学校の窓から逃げ出してきて、盛岡城二の丸で文学書、哲学書を読みふけったという。



盛岡城公園

盛岡城址公園
盛岡城は,明治の廃藩置県の後、明治5(1872)年に陸軍省所管となり,明治7年には内曲輪(御城内)の建物の大半が取り壊されてしまった。
明治39(1906)年に近代公園の先駆者である長岡安平の設計により岩手公園として整備され,さらに、平成18(2006)年には開園100周年を記念して「盛岡城跡公園」と愛称がつけられました。

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