松前は、函館から国道228号線を西に約90kmのところにある。
松前を支配していた松前氏はもともと蛎崎(かきざき)氏と称していた。
松前氏の始祖である武田信広は、奥州の南部氏に追われて蝦夷地に渡った。
室町時代中期の長禄元年(1457)アイヌ最初の大規模な蜂起となった「コシャマインの戦い」を平定。その後信広は蛎崎家を継いだ。
豊臣秀吉が天下統一後、五代・蛎崎慶広は蝦夷地の支配者として認められた。
秀吉の死後、慶長4年(1599)慶広は大坂城で徳川家康に臣従することを誓い、姓を松前と改めた。
もともと蛎崎氏の居館は不便な山城の大館に築かれていたが、松前慶広は海に近い福山の地に慶長5年(1600)から築城に着手。慶長11年(1606)松前城の前身となる福山館が完成した。
幕末の松前は、蝦夷地随一の城下町で、当時からにしん漁や京・越前との貿易船・北前船での交流で栄えていた。
慶応4年/明治元年(1868年)〜明治2年(1869年)にかけての新政府軍と旧幕府軍との最後の戦いである戊辰戦争では松前藩は、東北地方が奥羽列藩同盟として旧徳川方への帰属を議論していた頃から、西国との交流の深さから早くも西軍への同調を決めていた。
ところが、大政奉還後、松前藩ではクーデターにより藩の実権は勤王派が掌握したため土方歳三の旧幕府軍により攻撃を受けることになった。
ここに松前は歴史上最大唯一の戦争である箱館戦争に巻き込まれたのである。 |
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焼失前の天守閣
安政元年(1854)に松前崇広は6年がかりで福山館の修築を重ね松前城が完成。
これが江戸時代最後の日本式城郭となった。
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