ぢい散歩(落語に登場する町歩き)   .
落語に登場する町歩き
 

草加および春日部稲門会の落語愛好仲間13名で落語に登場する街を歩いた。今回は案内役として、落研出身の林ヤ流?家元・林センセイの名講釈付きで楽しい街歩きとなった。
途中、どぜうの名店「飯田屋」で昼食&一杯やってしまったのでどうなることかと思ったが、街歩きの最終地点・三ノ輪まで全員無事にたどり着いた。
(反省会することもあまりなかったが)反省会と称し駅前の居酒屋で飲んだ酒は格別にうまかった。


コース・マップ



出発点の田原町駅


はなし塚

本法寺

林家元の話を熱心に聞く参加者

禁演落語が納められたはなし塚

戦時中の昭和16年10月30日から終戦後の昭和21年9月30日までの5年間にわたって、時局にふさわしくない廓噺など53作の台本が浅草本法寺の「はなし塚」に納められ、その口演を自粛したそうです。



本法寺の外壁には懐かしい噺家の名前が刻みこまれている。



雷門通り(吾妻橋方向)を渡る
 吾妻橋は、落語「文七元結。辰巳の辻占い」などに出てくる身投げの名所


看板だけが残る旧日本喜劇人協会
(喜劇人協会は渋谷へ移転している)



浅草六区のランドマーク・ROXビルが見えてきた



どぜう飯田屋
名店へ寄り道をする


一子相伝の秘伝のたれを使ったどぜう鍋

親子丼
玉丼、親子丼も同じたれを使っていて人気メニューとなっている



浅草といえば浅草演芸ホール


凌雲閣跡地


凌雲閣記念碑
凌雲閣は「雲を凌ぐほど高い」という意味から命名された。


跡地はパチンコ店になっている
 

凌雲閣(絵葉書)
明治23(1890)年11月、赤煉瓦づくりの12階建てのビル「凌雲閣(通称・浅草十二階)]が建てられた。高さ52m八角形の高塔で、当時の超高層ビルであった。1階~8階までには、日本最初のエレベーターが設置されていた。
ところが大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災により、建物の8階部分から上部が崩壊して、取り壊されてしまった。



花屋敷通り前を左に言問通りへ

さくらホステル前を進む


浅草寺北側の言問通り前にある "雷5656会館"のわきを歩いて柳通りへ



見番(浅草三業会館)

雷5656会館の角を曲がると、風流な"しだれ柳"が続く柳通りに面して見番がある。江戸時代から続いてきた華やかな浅草花柳界の総合運営をしている。


濱清「懐石 瓢庵」
十数年前に忘年会をしたのを思い出しました。


猿若町 市村座跡地の碑
歌舞伎小屋の中村座・森田座とともに江戸三座の一つであった。1634年、江戸葺屋町(今の人形町)に村山座として創設。67年頃改称して市村座。1841年浅草猿若町に移転した。


待乳山聖天(まつちやましょうてん)

ご本尊は十一面観音菩薩を本地仏とする聖天様。浅草七福神の一つで毘沙門天を祀る。古くから大聖歓喜天の伝説が残り、天安元年には慈覚大師が東国巡拝の際、この地で21日間の「浴油修行」を行ったとされる。



供え物は本物の大根。夕方には社務所で供え物の大根を配っている。

社殿わきにはケーブル・リフトがあり、川の手通りへ下りられる





山谷堀にかかる今戸橋

山谷堀(今は公園)
昔、吉原へは山谷堀を使って舟で出かけたそうだ


今戸神社

今戸神社

縁結びの神様
今戸神社の絵馬には、恋愛成就の願いの絵馬がたくさん結ばれている。我々お爺さんたちにはもう無縁のこととなってしまった。(ガックリ)

今戸焼発祥の地
落語「今戸の狐」に出てくる今戸焼発祥の地。

江戸時代に初めて招き猫が作られた神社



山谷堀を吉原へ歩く

公園整備が進む 山谷堀跡
   


吉 原


1617年、江戸幕府公認の遊廓として誕生した「吉原遊廓」は、当初、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)にあった。明暦3(1657)年の大火(振り袖火事)で江戸の大半が焼失してしまったため吉原遊郭は、浅草寺裏手の日本堤という場所に移転した。そのため、この地を「新」吉原と呼んでいる。


日本堤案内図から


見返り柳
吉原大門交差点の脇にある「見返り柳」。遊郭で遊んだ人が名残惜しく振りかえったという場所。
かつては山谷掘脇の土手にあり、道路の区画整理などによりこの場所に移され、また、震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられています。



吉原遊郭の入口「大門」
「文七元結」、「明烏」、「付き馬」、「紺屋高尾」など、吉原が舞台となった落語はたくさんあります。中でも、喜瀬川花魁が登場する、「お見立て」、「三枚起請」、「五人回し」は笑ってしまいますね。


吉原大門跡
落語「明烏」では、若旦那が遊び人の源兵衛と太助に「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」といい返すセリフがよいですね。。


明治後期の大門
遊女が逃げ出さないように、遊郭の出入口はここだけだった。


吉原の古地図
遊郭の周りは"お歯黒どぶ"といわれる幅2間(3.6m)ほどの堀が巡らされていた。

お歯黒どぶ石積み
お歯黒どぶは現在道路となっていて一段低くなっている



吉原遊郭の鎮守として建てられた吉原神社 
 
吉原神社



吉原観音
大正12年の関東大震災では、多くの遊女たちが焼け死んだ。亡くなった遊女たちの供養をする為、大正15(1926)年に建立された吉原観音。

吉原観音


鳶神社


この日は、酉の市(二の酉)で大賑わいであった

大変な人出で境内へは入れない状態



飛不動尊-正宝院(とびふどうそん しょうぼういん)

飛不動尊-正宝院

本山派・正山上人によって1530年に開かれた天台の寺院。創建後まもなく正宝院の住職が本尊である不動明王像を背負って、紀伊山地の中央を南北にのびる大峰山に出向いた。しかし、不動明王像が一夜にして奈良から当地に飛び帰り人々にご利益を授けたという由来により、「空を飛び来て、衆生を守りたもうお不動様」ということで飛不動と呼ばれている。


飛不動尊

記念写真
空の交通安全と道中安泰、旅行安泰の「飛行護」を頂くことが出来るので、また、「よく飛ぶ」というのでゴルフ愛好家も訪れるそうです


樋口一葉記念館

五千円札でお馴染みの樋口一葉。日本を代表する女流作家ですが、肺結核により24歳という若さで亡くなった。その代表作である「たけくらべ」は、吉原遊郭が舞台となっています。

樋口一葉の本郷菊坂旧居跡


 
(2015.10.24本郷ウォークで樋口一葉の旧居跡を訪ねたときのもの)

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