ぢい散歩(石見銀山①龍源寺間歩)   .
世界遺産  石見銀山

石見銀山(龍源寺間歩)    石見銀山(大森地区①/武家町屋)   山陰・たび歩き(TOP)

石見銀山へは JR山陰本線大田市駅から石見交通バス(大森・大家線/大森・大家方面)で約30分。
一般公開されている坑道・龍源寺間歩(りゅげんじまぶ)までは、大森バス停で下車して徒歩40分(2.2km)のところにあります。
なお、石見銀山は鉱山遺跡としてはアジアで初めての2007年に世界遺産に登録されました。

 (営業時間)
 3/1~11/30 → 9:00~17:00
 12/1~2/28 → 9:00~16:00
 観光案内: 島根観光ナビ 石見銀山世界遺産センター 石見銀山みてあるきマップ 石見銀山大森町

石見銀山の玄関口 山陰本線・大田市駅


銀山ゾーン/ウォーキングマップ

石見銀山まちあるきマップ
(C)島根県【文化財課世界遺産室


石見銀山は、 大永6(1526)年に博多の豪商神屋寿禎(かみやじゅてい)が発見したという。(「銀山旧記」) それ以後、本格的に開発が開始された。

当時、石見を支配していたのは戦国大名の大内氏であった。当主・大内義隆は、石見・周防・長門・安芸・備後・豊前などを有する西国随一の戦国大名であった。
しかし、大内義隆は天文20(1551)年に家臣・陶隆房の謀反に遭って自害し大内氏は滅亡してしまった。

その後、石見の隣の出雲を本拠とする戦国大名尼子(あまご)氏が石見に侵入し、大内氏に代わって銀山の支配権を掌握。尼子氏の支配は約5年間継続したが、永禄5(1562)年には安芸の大名毛利氏が尼子氏を攻め軍事的に制圧し、石見銀山の支配権を確立した。



石見銀山・龍源寺間歩へ
(銀山ゾーン)


貸自転車屋
銀山ゾーン入口にある大森にて電動自転車を借りる。

電動自転車で坂道もスイスイと登る

公開されている銀山の坑道がある龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)まで電動自転車で12,3分。(約2.2km)




途中でタヌキ?に遭遇


タヌキ?に化かされぬうちに坂道をどんどん走って逃げる?

福神山間歩(非公開)

もうすぐ龍源寺間歩へ


高橋家住宅跡




町年寄の高橋家住宅跡



駐輪場へ到着
龍源寺間歩まで徒歩5分くらいで到着。


龍源寺間歩


龍源寺間歩に到着
龍源寺間歩(まぶ)は、正徳5(1715)年から採掘がはじまった銀の採掘坑道。江戸時代の開掘の長さは約600mで、大久保間歩に次ぐ大坑道で良質の銀鉱石が多く掘り出された。閉山したのは昭和18(1943)年なので約230年にわたって開発が行われたことになる。



龍源寺間歩入口


壁面や天井にはノミで掘った跡がそのまま残り、約600mの坑道の内273mを一般公開している。ゆっくり歩いて15分ほど。






明り取りはサザエの殻を器にしてローソクを焚いていた




古文書の石見銀山絵巻が電照板で展示されている。



龍源寺間歩の出口



佐毘売山(さひめやま)神社



佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)
さひめ山とは、山陰の名峰三瓶山の古名。
龍源寺間歩出口から約200m東に位置していて、100段の石段を上がると拝殿がある。


拝殿


清水谷(しみずだに)精練所跡




明治時代の精錬所
【説明板】

 徳川幕府が崩壊し、明治時代になると、石見銀山では、一部の既存の間歩(坑道)を利用した地元の人たちによる小規模な採鉱(さいこう)がかろうじて続いていましたが、本格的な銀生産の再開は、明治19年(1886)に萩出身の藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう)たちが起業(きぎょう)した大阪の藤田組(現在の同和鉱業株式会社の前身)による採掘権(借区権)の入手を待ちます。

 藤田組は、仙ノ山(せんのやま)の南側の本谷地区の福石鉱床(ふくいしこうしょう)の金銀含有率と量に着目し、それによる銀生産を計画、明治27年(1894)武田恭作氏(当時東京帝国大学冶金学科学生)の設計による近代的な銀の製錬所の建設を開始し、20万円の巨費を投じて翌年に完成、4月から操業を開始しました。
 この製錬所には写真のような施設群があり、福石鉱床で採掘した原料の鉱石は、新たに掘削した金生坑(きんせいこう)と拡張した既存の蔵之間歩(くらのじょうまぶ)を通って製錬所の最上段までトロッコで運んでいた状況をうかがい知ることができます。
 鉱石の品質が予想より悪く、また設備の銀の製錬能力も十分でなかったことから不採算(ふさいさん)となり、明治29年10月に、開始からわずか1年半で操業を停止しました。

 その後、藤田組は柑子谷(こうじだに)に永久製錬所を新たに建設して、銅生産を中心に大正12年(1923)まで操業しました。


山すそに傾斜を利用して造られた明治時代の先端技術による精錬所の遺跡


1533年に神屋寿禎は博多から石見銀山へと技術者を送り込み、朝鮮から伝来したとされる灰吹法の技術を用いて現地で銀精錬を行わせるようになった。このことによって銀の生産量が飛躍的に増大し、1530年代後半には、生産した銀の一部を成す大内氏への毎年の献上銀が16kgから80kgへと急増したことが記録されている。



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