世田谷・豪徳寺を歩く@   .
世田谷・豪徳寺周辺を歩く
 
   松陰神社 世田谷城址  豪徳寺・ 武家屋敷

稲門会ハイキング同好会は高齢化が進み、山歩きはきついという声も出て、会の名称も「歩こ〜る会」と変更して、街歩きも開催し、また、反省会と称する居酒屋めぐりを導入することになりました。
山歩きの場合の参加者は4〜5名程度なのですが、会の方針変更と共に参加者が10名前後と増加して一段と騒々しい老人の会になってきました。

今回は、私の故郷世田谷を歩きました。子供のころよく遊んだ世田谷城址、豪徳寺を数十年ぶりに歩きました。
懐かしい玉電は世田谷線となり車体が新しくなり、また、この界隈はより一層の高級住宅街になっていました。





三軒茶屋駅(東急世田谷線)
1969年に玉川線二子玉川・渋谷間が田園都市線の開通により廃止となり、その支線であった三軒茶屋・下高井戸間が世田谷線となった。昔は玉電と呼ばれていた。


松陰神社


松陰神社
吉田松陰を埋葬している神社。松陰の門下生であった高杉晋作・伊藤博文らが、小塚原回向院(えこういん)にあった吉田松陰の墓をこの地に埋葬しなおし、更に明治時代に社を建立して、その霊を祀って誕生した神社。


松陰先生

吉田松陰は長州藩(現在の山口県)の下級武士の家に生まれた。長崎に留学後、江戸へ出て佐久間象山に学び1854年、欧米遊学を志し、下田沖に停泊していた黒船(ペリー艦隊)に密航を企てて失敗し投獄された。その後、萩の松下村塾にて講義を行い、高杉晋作など幕末から明治にかけて活躍する人々が多数輩出した。



松陰神社本殿






松下村塾
本殿の隣にある松下村塾。山口県萩市にある松下村塾を再現したもの。高杉晋作、伊藤博文、山県有朋ら多くの門人がここから育った。



萩市にある松下村塾



吉田松陰先生の墓
日米修好条約に絡んで幕政批判を強めた松陰は、再び投獄され、井伊直弼の安政の大獄にて獄中で刑死した。安政6年(1859)歿、30才。



国士舘大学
環境の良いところにある大学ですね。

勝国寺


世田谷城

世田谷城は足利氏 の一族・吉良氏が居城とした城で、吉良成高〈しげたか〉が応永33(1426)年以前に築いたとされます。

天正18(1590)年に豊臣秀吉の小田原征伐が行なわれ、その時に豊臣方に城は接収され廃城となりました。
その際、世田谷城の資材は 江戸城改修に使用されたそうです。


世田谷城址と豪徳寺の古図

世田谷城址の濠跡

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