チェコ 風まかせ・チェコ ぶらり歩き 




チェコ出身の作曲家といえばスメタナ、ドヴォルジャーク、ヤナーチェックです。この偉大な作曲家達はいかにもボヘミアを感じさせる作品をたくさん書いています。
特に、ドヴォルジャークの新世界交響曲、チェロ協奏曲、そしてスメタナの連作交響詩「わが祖国」の第2曲「モルダウ」はあまりにも有名ですが、その第1曲”高い城”(ヴィシェフラト)・・・何とも言えないハープが奏でる出だし・・・一度聴いたらぜったい忘れられないメロディですよねぇ。
そんなわけで、偉大な作曲たちの原点・・・・「わが祖国」とはどんな風土の国なのか・・・・訪れてみることにしました。
季節的には「プラハの春」音楽祭が開かれている5月がよいのだけれど、格安シーズンの冬にでかけてしまいました。
ところで、モルダウはドイツ語読みで、現地ではヴァルタヴァと呼ばれています。

冬は音楽シーズン!
もちろん、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏を聴きに行くというのが目的です・・・。

 まずはチェコのデータを。(外務省HP「チェコ共和国」から引用)
1.面積 78,866km2(我が国の約5分の1)
2.人口 1,021.6万人(2004年9月現在)
3.首都 プラハ
4.人種 チェコ人94%、その他スロバキア人、ロマ人等(2001年)
5.言語 チェコ語
6.宗教 カトリック 26.3%、無信仰 58.3%(2001年)

ボヘミア王国
9〜10世紀の大モラビア帝国を経、10世紀にボヘミア王国成立。14世紀神聖ローマ帝国皇帝を兼ねたカレル4世の治世に最盛期を迎えた。1620年から約300年ハプスブルク家の支配下にあり独文化の強い影響を受けた。

チェコ共和国
第一次大戦後の1918年に、ハプスブルグ帝国からの独立を果たしチェコスロヴァキア共和国が成立しました。独立と同時に初代大統領に就任したのが、トーマス・ガリグ・マサリク(1850〜1937)です。しかし、1937年にマサリクが死去すると、翌38年にはナチスによる「ズデーテン割譲」が行われ、1939年にチェコスロヴァキアはドイツに編入されてしまいます。
第二次大戦後はソ連の共産圏下に組み込まれていましたが、ソ連の崩壊後
1989年の民主革命(「ビロード革命」)を経て、スロバキアのナショナリズムの高揚を背景に、1993年スロバキアとの連邦を解消し独立した。EUへは、98年3月から加盟交渉を開始し04年5月1日に正式加盟した。世界でも有数な高い技術力のある工業国。

 風まかせ
プラハ市は、「千塔の町」、「千年の都市」と呼ばれております。しかし、東西25km、南北15mの小さな町です。
戦災にあった町ですが、いろいろなところにボヘミア王国の面影を残す町並みはすばらしく、しばらくここにずっーといたい・・・そんな気にさせる静かな町です。
町を東西に二分するモルダウ川(チェコではヴァルタヴァ)がゆったりと流れ、その左側には翼を広げたようにプラハ城がそびえ、対岸にはゴシックやルネッサンス建築が並ぶ旧市街が広がっています。

プラハ城はヴァルタヴァ川の西岸フラチャニの丘にあって、歴代国王の居城となっていました。
9世紀にボジヴォイ王が建て、その後14世紀になってカレル4世の時代にほぼ現在のかたちに。
そして、16世紀末にハプスブルグ家のルドルフ2世がプラハに宮廷をおいたことで栄えましたが、次のマティアス王がウィーンに宮廷を戻したことで反映も止まり、さらにマリア・テレジアの時代に大改築が行われたが衰退していきました。
第一次大戦後の1918年に、ハプスブルグ帝国からの独立を果たしチェコスロヴァキア共和国が成立すると大統領官邸となり現在も旧王宮の建物の一部が大統領官邸となっています。



城外からの聖ヴィート教会

北門

北門をくぐり第二中庭へ
コールの噴水がある

正門・マティアス門
直立不動の姿勢で衛兵が建つ門から城壁の中にはいると、旧王宮、宮殿、教会、修道院等が立ち並び、一部は博物館や美術館として使用されています。

マティアス門

市内
 カレル橋
聖ヴィート大聖堂は、カレル橋からプラハ城を見上げたときに一番に目につく建造物です。プラハ城の城内にあり当初は10世紀の初めに建てられ、その後幾度もの改築を重ねた後、14世紀半ばには現在のゴシック様式へさらに改築されました。その後約600年かかって20世紀にやっと完成しました。正面上には2本の尖塔がそびえ、内部にはいくつもの美しいステンドグラスで飾られています。

教会内でカメラを使用の場合には
30コルナ支払い緑のシールを
胸などに貼ります

ミュシャのステンドグラス

みごとなステンドグラス

ヴァツラフ礼拝堂
1372個の宝石がはめ込まれている壁

聖ヴィート教会

旧王宮

聖イジー教会
920年にヴラジスラフ一世が
木造の質素な教会を建てたのが始まり。
 カレル橋
16世紀、ルドルフ二世の時代に城の番兵の住居として建てられた。
黄金小路という名前の由来は、ここに金細工職人たちがここに移り住んできたという伝説に由来している。
現在この小路の小さな家は、みやげもの屋となっている。

カレル・チャベックのロボット館

小路にはみやげ物屋が軒を連ねる

木で作られたチェコ人形の数々

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