中国三千年の歴史を訪ねる旅(西安)  .
 
中国三千年の歴史を訪ねる旅

西 安

北京のホテルを朝の5時過ぎにチェックアウトして朝7時半発の飛行機で西安へ向かいました。西安まで約1時間40分の空の旅です。
ところで、中国政府の民活化?政策により国営航空会社がいくつかの航空会社へ分割されましたが、その中心となっているのが中国国際航空です。こんなことを言ってはなんですが、往路の747ジャンボ機も見た目は新しいのですが、機体の色は塗り直し、シートは色あせて、また、収納棚はロックが効かないし・・・・明らかに年式が相当古いものなのです。海外便はボーイング777を導入しており、スケジュール表ではそうなっていましたが、旅客が多い時期だったので747ジャンボ機になったのかもわかりません・・・・。
機内サービスもお酒は飲み放題がうたい文句ですが、ビールは冷えていないし、そもそもビールを含めてその他の飲みものを積んでいるようには思えません。
西安への飛行機も機体が古く、これを優秀なパイロットがウデでカバーしているのは明らかでした。



西安の歴史

中国のほぼ中心に位置する西安は、かつて長安と呼ばれ、紀元前11世紀から10世紀初頭までの約2000年間にわたって、13王朝の都が置かれた古都である。秦の始皇帝、漢の武帝、唐の太宗と武則天、玄宗と楊貴妃など、歴史上の重要な人物を輩出した場所でもある。
西安の街は高さ12メートル、全長約14キロの巨大な明の城壁に囲まれており、また、東西南北に門があり、特に西の門は、シルクロードの起点となっており、三蔵法師など、多くの旅人がこの地から出発した。
日本との交流も深く、遣随使や遣唐使が、ここから多くの文化を日本に持ち帰った。現在は陜西省の省都。総面積9,983平方kmで、8区5県を管轄する。総人口714万人、そのうち市内人口はおよそ300万人。中国中西部の経済発展に大きな役割を担う地である。

兵馬俑(へいばよう) 西安最大の見所。秦の威容を物語る兵馬俑

20世紀最大の発見といわれる「秦の始皇帝兵馬傭坑」は市内から東北35kmを離れたところにあり、車で45分。始皇帝陵から東へ1.5km行った地点にある。
干ばつの続いた1974年の3月、井戸を掘っていた地元農民が、陶器の破片を発見。始皇帝の陵墓を守る陪葬物として焼かれた兵士や馬の人形=兵馬俑が見つかった。兵馬俑は3つの坑に分かれて埋められており、発掘した順に基づき、一号坑、二号坑、三号坑と名づけられた。一号坑は最も大きく、長さ230m、幅62m、深さ5m、総面積14260平方m、兵馬俑の数は約6000体。二号坑は6000平方mで、兵馬俑は1000体余り。三号坑はいちばん小さく500平方mで、俑は58体だが、地下軍団の司令部だったと見られている。一号坑は今なお発掘が続けられているが、前衛部隊、警備隊、東に向かって整然と列を組む主力軍と見られるおびただしい数の兵馬俑が並び、秦の権力を物語っている。兵隊俑の平均身長は180cm。胴体は空洞で、顔の表情はそれぞれ異なり、服装も身分によってまちまちだが、全ての兵隊俑が手に武器を握っている。粘土を材料に形作り、彫刻を施し、最後に窯で焼いた兵隊俑は、一部まだ色彩が残っているものもある。殉死制度のあった時代に陶製の人形を身代わりに殉死品としたと見られるが、進んだ文明が偲ばれる





見学当日はあいにく大雨でした。兵馬傭の写真で必ず紹介される1号坑ホールは、ドーム状の体育館のようなところで、入場門前にはたくさんのみやげ物屋が出ていて大変な混雑です。旅行パンフレットの写真をみると沢山の兵馬が整然と並べられていると思っていましたが、それは前方だけで、後方は腕や足が崩れたままで放置されています。(考えてみれば埋められていたのだから壊れて当然ですよね)
ところで、死ぬまでに一度見てみたいと思っていたものを前にしたときのコーフンは今だに忘れられません。館内にも土産物屋があり兵馬俑のレプリカが販売されており、またカタログを買うと第一発見者(写真)がサインをしてくれるというので大変な行列ができていました。
なお、ホール内は写真撮影は厳禁ですが、欧米系の外国人がバシャバシャ撮っていたので便乗しましたが、3号坑では係員が怖い目つきで不審者を睨みつけるのでビビッってしまいました。同行の家族は、これに巻き込まれたくないのか私を遠ざけて離れてしまいます。
兵馬傭の入口付近は土産屋でいっぱいですが、そこにも「第一」発見者の人がいてパンフレットを買うとサインをしていました。こちらのほうはニセモノだそうです。



発見者(ホンモノ)

兵馬俑(4頭立て馬車)


始皇帝陵

動乱の戦国時代をわずか10年で統一し、中国最初の統一王朝である案を建国した。始皇帝の陵墓。司馬還の史記によれば、陵墓の地下には豪華絢爛な地下宮殿と多量の珍宝が眠っているとされています。発掘には賛否両論あり,研究のために発掘すべきだという意見と,発掘してしまうとその神秘性が損なわれるとの意見とがあり,手付かずの状態が続いています。ところで,墓の設計者は,口止めのために殺されてしまっています。また、設計図も残されていないため発掘は非常に困難だそうです。


華清池(かせいち)  
楊貴妃の美しさは、この温泉にあり。玄宗皇帝とのロマンスの舞台

西安市の中心から東へ30km。驪山の北側にある有名な温泉池。
3000年ほど前に、驪山が爆発して温泉が湧き出たといわれ、歴代の皇帝が、ここを一大行楽地にしようと、大掛かりな工事を行ってきた。唐代の玄宗皇帝も、ここに「華清宮」を作り、毎年冬から春にかけて楊貴妃とともに訪れ、温泉と酒楽の日々を楽しんだといいます。
       「春寒くして浴を賜う華清の池、温泉の水滑らかに凝脂を洗う」
詩人・白居易が書いた「長恨歌」にも、ふたりの愛と、贅沢極まる生活振りが歌われている。海棠湯、蓮花湯、尚食湯など、楊貴妃が“凝脂”を洗った温泉の跡も昔のまま保存されています。また、近代歴史上では、1936年の西安事変の舞台となったことでも知られており、西繍嶺の中腹には蒋介石が張学良に捕まえられた場所「兵諫亭」があります。当時、蒋介石が泊った「五間庁」も残っています。
なお、池の端には、楊貴妃の白い像が立っていますが、楊貴妃が少々おデブちゃんだったのでびっくりしてしまいました。昔は、太った人が美人だったようです。

玄宗皇帝と楊貴妃の保養地「華清池」

楊貴妃の前で

楊貴妃像


大雁塔(だいがんとう)  
雄大な景観が悠久の時を告げる、西安のシンボル。

紀元652年、唐高宗李治が文徳皇后の供養のために建立した寺で、かつては大慈恩寺と呼ばれた。当時は、部屋数が1900間あり、300人の僧侶が暮らしていたという。
玄奘三蔵法師が、苦難の末にようやく手にした教典を、天竺(インド)から持ち帰り保存した場所としても知られ、塔の入口の両側には、その功徳を賛えるため、太宗と高宗の「大唐三蔵聖教序」と「大唐三蔵聖教序記」の石碑が対になって埋め込まれている。塔は煉瓦でできていて、当初は五層であったが、則天武后の時代に大改造を行い十層になった。しかし戦乱などで上部が崩壊。現在は七層で高さは64mである。内側には木製の階段がらせん状に連なっていて、登ると西安の街を一望することができますが、歳のせいで息切れしそうで断念しました。





西安城壁 
市内を囲むレンガの城壁は、西安のシンボル。

現在の西安城壁は、唐時代の長安城を基礎に、明の時代にレンガを積み重ねて築いたものです。長さ13.7km、高さ12m、上部の幅12m、底部の幅15m、面積11.5平方m。その規模は中国一を誇ります。
外敵の侵入を防ぐため、街の中心地を四面に囲んでおり、東西が長く、南北に短い造りになっています。東西南北4つの門には、物見櫓である城楼や、矢を射る窓などが設けられています。安定門ともいわれる西門からは、遠くシルクロードを望むことができ、ここから多くの人が西を目指しました。西門と南門(明徳門)は観光ポイントともなっていて、城壁の上にのぼって市内を一望することができます。
私たちは餃子宴で有名な「徳發長」にて餃子を食べた後、日の暮れた暗闇の中に南門城壁へ登りました。音楽がガンガン鳴っているので城壁の下を見ると屋台も出ており市民が夏の一夜を楽しんでおりました。南門あたりはメインストリートですが、(西安に限らず)内陸部の都市は町全体が薄暗く、夜遊びが得意な私も誘拐団に捕まってサーカスに売られてしまうのではないかと躊躇するほどです。


鐘 楼  
ライトアップが美しい、街の重要建築物

建立は1384年。高さ36m、面積約1377平方m。城壁内を東西南北に走る大通りの交差点の真ん中にある木造建築が鐘楼です。かつて明の太祖朱元璋が、西から長安に向かう龍の夢を見た。その龍は巨大なライバルの出現を意味していると占いに出たことから、龍を鎮めるために建てられたというのが、鐘楼の由来です。外側からみると三階建てですが、中に入ると二階建てという構造で、釘を一本も使わず、一本木で建てられているのが特徴です。その昔は、鳴り響く大鐘が朝を告げ、その鐘の音を聴きながら、役人たちは宮廷へ向かったといわれています。現在では、夜のとばりが降りる時刻になると美しくライトアップされ、訪れる人々を楽しませています。


碑 林(ひりん)
林立する石碑が圧巻。石刻芸術の故郷

1090年(北宗時代)に創建。近年、中国政府が改造、拡張をすすめ、石刻芸術の故郷とも呼ばれるようになった博物館です。
7つの陳列室、6つの廊下、碑亭で構成され、展示物は漢代から近代までの石碑と石刻が2300点以上。館内には65万文字に及ぶ十三経の石碑が並び、王羲之、欧陽洵、慮世南、顔真卿ら書道大家の原刻碑1000点以上も展示され、大きなものになると高さ5mほどの碑もあります。唐の玄宗李隆基の直筆による「石台孝経」、114個の石の両面に儒家経典を刻んだ「開成石経」など、有名なものも多数あります。日本の元号「平成」の由来となった石碑も公開されている。












餃子の徳發長

夕食は、明の城壁の中にある餃子の老舗店「徳發長」にて名物餃子を食しました。
くいしん坊バンザイの私にとって、北京ダック、海鮮料理と西安餃子はこの旅の最大の関心事です。
西安餃子はほとんどが小ぶりの餃子で、皮にニワトリやあひるなどいろいろ細工がしてあり、見た目も楽しく手の込んだものです。また、横浜中華街で食べる飲茶の蒸し餃子と比較すると、皮が厚めで、その食感は日頃食べなれているのと異なりますが、それなりにおいしいものです。コースの最後に日本のしゃぶしゃぶのような鍋で煮込む水餃子がでたのですが、この水餃子はおいしいスープがよく出ており絶品でした。
しかし、餃子はコース料理で18種類ぐらい出るそうですが一人1個づつになると、食べたような気がせず何か物足りない気持ちになります。




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